『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて
陶器商人達の声が聞こえる、波穏やかな伊万里の津
伊万里駅から川筋に向け広がる市街地に陶器問屋の住宅が残されている。創業1764(明和元)年頃と伝えられ、「まる駒」の商号で活躍していた犬塚家の住宅跡である。「伊万里市陶器商家資料館」として公開されているこの建物は、間口約5.5m、奥行き約15mの細長い構造で、妻入二階建、外観の白壁土蔵造が商家として風格を今に伝えている。1階部分の土間や板の間で商品である陶器の選別や荷造りが行われ、座敷では買付けに来た商人との商談が活発に展開されていたのだろう。2階には住宅部分で大きめの座敷が二間設けられ、諸国から伊万里津を訪れた商人たちはこの住宅に逗留して注文した品の完成を待った。滞在は長いときは半年にもなり、その間陶器商人たちは芝居や踊り、三味線、琴などで買付け商をもてなしていた。「伊万里商人の芸達者」と言われるようになった所以である。
この屋敷の北側一帯の川筋には商品を保管する蔵が立ち並んでいたという。川面に待機する船に直接荷を降ろせるよう川に向けた搬出口をもった蔵で、中には船を蔵の中に誘導するため、短い引き込み水路を設けた構造も見られた。海と川の狭間で賑やかな荷の積降ろしが繰り広げられていたことだろう。
伊万里焼とは前述したように積出し港である伊万里の名称から取られた肥前一帯の陶磁器の総称だが、江戸期に国内外に積出された伊万里焼は厳密には「古伊万里」と呼ばれ、現在伊万里焼というと一般的には鍋島様式を受け継いだものを指す。宮中や将軍家への献上品として活用された「鍋島焼」は、伊万里に隣接する大川内山にあった藩直営の御用窯で厳しい管理下のもと焼かれていたいわば高級品である。この御用窯は鍋島藩窯と呼ばれ、その技法を守るために関所を設け、厳重に他地域と隔絶された秘窯であった。1872(明治4)年の廃藩置県の際、藩窯は閉鎖されたが、精緻を極めた技法と伝統はこの地で受け継がれ、新しい伊万里焼の拠点となっている。
伊万里川河口に架かる伊万里津大橋には古伊万里の大壷が設置され、その由来が掲げられている。その中に、大壷一対と龍騎兵一箇大隊を交換したプロシアのアウグスト大王をはじめ、当時のヨーロッパ貴族がいかに伊万里焼に夢中になっていたかを伝えるエピソードが紹介されていた。彼らを虜にした「IMARI」を伝えたセラミックロードの起点「伊万里津」は伝統を継承しながら、将来を見据えた開発を進める古くて新しい港だった。
「まる駒」の商号で活躍した犬塚家屋敷跡。資料館として公開されている
陶器商家の座敷では諸国の商人たちをもてなす宴席がもたれ、伊万里津は「芸所、伊万里」と呼ばれた
伊万里津大橋に飾られた大壷。この一帯が陶器の積出し港として名を馳せた伊万里津だ
鍋島藩の御用窯の面影を色濃く残す大川内町。山間の秘窯にふさわしい佇まいだ
30軒あまりの窯元が細い路地にひしめき合う大川内は観光ポイントとしても有名だ
大川内町は伝統を継承しながら新しい伊万里焼の発展を担っている
写真/西山芳一
COLUMN
昭和初期の激動を伝える「川南造船所跡」
伊万里港の西岸、浦之崎地区に巨大なコンクリート構造物がある。高さ20m程の格子状の橋桁のようなものが六門、海側に向かって100m近く伸びている。その付け根の陸側に管理棟なのか二階建の建造物があり、さらに海側にのびた桁と直角の方向に同じようなコンクリート格子が延長されている。真上からみると曲尺のような構造になっている。まさに廃墟と化したこの建物が昭和初期から中期にかけて稼働していた「川南造船所」である。
もともと中東から船によって輸入された原材料を加工するガラス工場で、製品はここから海外に向けて輸出されていた。付近の海岸には岸壁の跡も認められる。昭和15年、日中戦争のさなかに長崎から移転した川南工業株式会社浦之崎造船所として主に貨物船の製造が開始される。昭和18年に軍需工場の指定を受け、海防艦、「人間魚雷」と呼ばれた特殊潜航艇なども建造された。当時の従業員数は学徒動員なども含め約2、500名に達する大工場だった。軍事拠点であったため米軍の攻撃目標となり、幾度となく機銃掃射を受け、その痕跡は今でも壁面に残されている。戦後は伊万里湾重工業株式会社として再生し、船舶の建造、修理に加え、鉄道の貨車、客車なども手掛けた。昭和30年に閉鎖されたが、工場跡は現在でも伊万里港激動期の語り部の風情で佇んでいる。