『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

17世紀中頃、「セラミックロード」と名付けられた海の道が九州北部から遠くヨーロッパに向けて通じていた。
陶磁器を積載した多くの船が辿ったことから、いつからともなくこの名で呼ばれるようになった。
この航路の起点となった港が、伊万里川、有田川の河口から扇状に広がるここ「伊万里港」である。

写真 伊万里市

伊万里港

「陶の道」セラミックロードの起点、古伊万里の故郷を訪ねて

 平成12年10月から翌平成13年1月までロンドンの大英博物館ジャパンギャラリーにおいて佐賀県内のトップクラスの陶芸家62名の作品を展示した「佐賀県陶芸展」が開催された。佐賀県は陶器の唐津焼、磁器の有田焼という二大ブランドを有し、江戸期からヨーロッパ向けに輸出され、多くの貴族を魅了していた。87日間の同展期間中の鑑賞者は約5万人を数え、現代においてもその関心の高さが窺える。これら陶磁器の積出し拠点となったのが唐津港と並ぶ佐賀県の主要港「伊万里港」である。

 17世紀の中頃、エキゾチックで神秘的な魅力を持つ陶磁器の収集熱を高めていたヨーロッパ市場は、政情が不安定な時期にあった中国からの供給が途絶えてしまうと、その代替として中国磁器に迫る技術を形成しつつあった有田に注目する。鍋島藩は有田焼の高度な技術が流出するのを嫌い、焼物の取引のみを伊万里を拠点として展開したため、伊万里港はその積出し港として俄に活況を呈する。肥前一帯の焼物は、積出し港の名を冠され「伊万里焼」として世界に広がっていった。「IMARI」は長崎の出島に集積され、ジャカルタ、東南アジア、アフリカの各地を経てオランダ、ドイツに輸出された。この航路が「セラミックロード」と呼ばれ、起点となった伊万里港は世界に開かれた日本の海の玄関口として名を馳せた。

 その後、中国の国内情勢の安定にともない、中国磁器の輸出が再開されたのを機に、18世紀末から伊万里焼の輸出は衰退するが、国内需要に向けた陶磁器供給の拠点、さらに石炭の積出し港と、明治から昭和にかけてその表情を変えながら港湾機能を発展させていく。

釜山に向かう貨物船に次々とコンテナが積載される七ツ島埠頭

コンテナキャリアの迅速な操作は正に職人芸とも言える正確さだ

川筋には陶器商人の屋敷や蔵が数多く建ち並んでいたという

そのエキゾチックな意匠から、多くのヨーロッパの貴族たちを魅了した「古伊万里」(写真:伊万里市商工観光課)