『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

「無人島」から始まる島の歴史と 港湾整備

 1593(文祿2)年、信州の小笠原貞頼が八丈島の辰巳の洋上で3つの島を発見、上陸して物産を採取した。外国人による島の発見記録は残っているが、実際に人が足を踏み入れたのはこの時が最初であった。貞頼は徳川家康に島の地図や物産を献上した際「小笠原島」の命名を許され、地名の由来となっている。
 1830(文政13)年、捕鯨のため来島したセーボレーら5名の欧米人とハワイの原住民20数名が二見港の湾口に近い洲崎海岸で集団居住を始め、最初の居住者となったが、1876(明治9)年、明治政府によって小笠原諸島が国際的に日本の領土であることが各国に通告されると日本人移住者が続々と来島し、本格的な開拓が始めらた。大正期からは南洋の要衝として父島の要塞化が進み、昭和19年、太平洋戦争の戦況悪化により2万2千人を超える兵員が増派され、同時に島民6,882人の強制疎開が行われた。この戦争で父島、母島両島では4,500人の尊い命が失われている。昭和43年、小笠原諸島の本土復帰が実現し、小笠原村、東京都小笠原支庁など行政機関が設置された。
 返還時の小笠原諸島の港湾施設は戦前に東京府が二見港に整備した物揚場と、米軍による岸壁がある程度だったという。返還からこれまで進められてきた港湾事業によって、二見港では2万t級岸壁200m、1千t級岸壁140mの他、野積場や客船待合施設が整備され、沖港においても岸壁や防波堤の築造によって基本的な港湾機能は確保されている。東京都小笠原支庁の手塚博治港湾課長にお話をうかがった。「昨年二見港に整備された−7.5mの2万t級岸壁は、平成17年に就航予定のテクノスーパーライナーに対応するものです。現在物揚場の整備を進めており、さらに『飛鳥』などの大型客船に対応できる3万t級の係船浮標を設置する計画も進行中です。沖港では平成12年に脇浜なぎさ公園が開園しました。観光と教育実習を目的として整備された美しい人工海浜でアオウミガメの産卵場所にもなっているんです」。二見港の物揚場では反射波を吸収する直立波消ブロックによる護岸の整備が進められていた。ブロックは物揚場の一角を作業場所として、型枠にコンクリートを流し込みその場で製作される。製品化されたものを手軽に搬入することなどできない離島では、資材も極力現地で製作する必要がある。ブロックは施工後も整然と配列され景観を損なわないデザインになっている。「小笠原では『観光』が大きなキーワードになりますから港の風景や安全性に配慮した整備も大切なんです」。漁港管理条例の一部を改正し、漁港付近に係留されているプレジャーボートも景観や安全確保の観点から放置が禁じられた。港周辺にはヤシなどの植物を移植して「南の島」ならではの港の景観を創造する計画もある。「財政が厳しい中、ここでは『離島』という特殊性があります。資材等を手配するにも内地からの運搬費が加算されコストが大きくなりますから港湾整備も検討を重ね、慎重に進めています」。建設資材となる砂利や石の採取は自然環境の保全に配慮して現在は採取を中止し内地生産に依存している。新設される大型の係船浮標も内地で製作、遥々大平洋を回航して設置されることになる。
 離島では何をするにも運搬コストという大きな課題をクリアしなければならない。家を一軒建てるにも内地の倍程度の費用がかかるのだ。公共事業にしても同様だが、費用的理由からライフラインを放置することはできない。島の港湾整備には島民の暮らし、生命がかかっている。

先住民の名前に由来する美しい「コペペ海岸」

島内の施設をメンテナンスする作業車も船で運搬される

二見港と二見漁港は天然の良港だ

整備が進む二見港の物揚場

父島の北、兄島瀬戸では潮流が川のように見える

山の奥深いところには戦跡が散在している