『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

名古屋港は日本列島太平洋沿岸のほぼ中央に位置し、中部圏のみならず日本の経済、産業、貿易を根底から支えてきた。
貿易額、貿易黒字額、さらに約1億5千万tの総取扱貨物量でもここ数年全国一位の座を他港に譲らない。
我が国を代表する港湾、名古屋港が担っている役割と課題、未来を切り拓いていくバイタリティ、そこに日本の港湾の将来像が垣間見えてくる。

名古屋港(写真:名古屋港管理組合)

名古屋港

名古屋の港を開いた鉄製貨客船

 三市一町一村(名古屋市/東海市/知多市/弥富町/飛島村)にまたがる広大な水面を有し、商業港と工業港の機能を兼ね備えた総合港湾となった名古屋港。しかし、本格的な港湾整備が始まったのは明治時代に入ってからであった。
 それまでは名古屋港発祥の地とされる「熱田の浜」が船着き場としてにぎわっている程度だったが、1896(明治29)年、いよいよ熱田湾築港工事が開始される。この頃の熱田湾は水深が−1m程度で、一面を葦が覆う沼地のようだったという。こうした悪条件下での築港は巨額の税金を投入する必要があることから、実現した例が国内では少なく、世論では工事反対の声が圧倒的だった。この状況を一変させたのが名古屋港の生みの親である奥田助七郎、弱冠30代半ばの土木技師である。1906(明治39)年、報知新聞社は大型貨客船「ろせった丸」を使い全国の主要港湾で巡航博覧会を開催した。奥田はこの豪華客船を名古屋港に寄港させ、築港の重要性を訴えようと考えたのだ。当然、主催者は建設中の港への寄港に難色を示すが、奥田は並々ならぬ熱意を持って船長に直訴、全責任を負うと言う奥田の情熱に船長が応え、同年9月ろせった丸は名古屋港に入港する。船の吃水が5.1m、航路の水深は−5.4mで、船底から海底面までがわずか30cm程度という危険な入港だった。1時間近くかけて船が鉄桟橋に接岸すると港を埋め尽くした観衆は万歳を三唱し、歓声を上げたという。博覧会は十数万人の来場者を記録し大成功を収めた。これを契機に港湾整備の重要性が市民に認識され1907(明治40)年11月、名古屋港が開港した。
 開港以来、名古屋港は急速に発展し、昭和11年には入港船舶5,000隻を突破、翌年の年間取扱貨物量は800万tに達し、戦前の最高を記録した。ところが太平洋戦争と、昭和19年の東南海地震、昭和20年の三河地震の2度にわたる震災によって壊滅的な打撃を受け、外貿荷役も停止状態になる。昭和26年に名古屋港管理組合が設立され、戦災復旧が展開されるが、昭和34年の伊勢湾台風により再び未曾有の被害を被った。
 しかし、港は立ち止まらなかった。昭和30年代後半に南部、西部の臨海工業地帯の造成も始まり、名古屋港は活気を取り戻した。港湾区域を一気に拡大したのもこの頃だ。震災を教訓として防災強化を意識した施設も整備された。同時期に埋立が始められた金城ふ頭は名古屋港初のコンテナターミナルとして昭和43年に供用が開始されている。国際的な海上輸送を見据えた名古屋港新時代の幕開けである。

多機能岸壁、飛島ふ頭

飛島ふ頭全景(写真:名古屋港管理組合)

ふ頭を結ぶ美しい名港三大橋(名港トリトン)

コンテナ物流が主流となる前から名古屋港を支えてきた稲永ふ頭にも年間1,000隻を超える船が接岸する

飛島ふ頭南側では−16mの岸壁整備が進む