『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

高知港を真上からみると港全体がタツノオトシゴのような形をしていることがよくわかる。
港奥部が頭部、そこから海に向かって胴体が広がり、湾曲した尾が太平洋に接している。
つまり尻尾の先が港口部になる。
港の入り口が狭いことから港内の静穏度が保たれた理想的な港湾だ。
物流機能の強化と並行して、市民に開かれた港を目指し整備が進められている高知港。
市民と港をつなぐ「高知港ハーバーリフレッシュ」計画も動き出した。

高知港全景(写真:高知県港湾空港局)

高知港

高知の港を築いた先人たち

 高知港は古くから「浦戸港」と呼ばれる天然の良港だ。まさしく内港の汀線は広大な湖のように湾曲し、波も非常に穏やかで高い静穏度が保たれている。

 「浦戸湾」の名は平安時代に紀貫之によって記された日本最古の紀行文『土佐日記』に見ることができる。土佐の国司に任命され、この地に赴任した紀貫之は934(承平4)年、4年間の任期を終え、50余日の船旅を経て都に帰京した。その船旅をまとめた『土佐日記』に「おほつ(大津)より浦戸をさしてこぎいずる」とある。

 浦戸の港はこのころから重要な港として機能していた。土佐は背後に急峻な四国山地が広がっているため、太平洋沿岸の海道が主要な流通経路だった。当時の浦戸湾は今の高知市街が海面下であったほど現在よりもさらに東西に深く入り込んだ理想的な寄港地であったのだ。

 1574(天正2)年、戦国時代の戦乱を征し、長宗我部元親が土佐統一を果たす。しかし元親の強大化を恐れた豊臣政権から、苛酷な軍役や重い税が課せられた。元親はそうした圧力に耐えるため港の整備を初めとする領国の体制強化に奮迅する。この頃、浦戸湾と外海を結ぶ水路を確保するため桂浜に、高知における最初の港湾整備となる突堤が築かれた。この「元親波止」は太平洋の荒波に耐え切れず消失してしまうが、後世に港湾整備の意義を伝える築港事業となった。

 元親の浦戸築港の遺志は、長宗我部家の後に領主となった山内一豊の家老、野中兼山に引き継がれる。兼山は「政治は水を治めること」という信念の下、突堤や導流堤の築造など積極的に港の整備事業を推進した。

 港口を2本の防波堤で絞り込み、潮が引く時の流れを活かして、多くの川から湾内に流入した土砂を外海に排出するよう計画した。時を経て1855(安政2)年安政大地震の津波で露出するまで忘れ去られたこの「野中波止」だが、その際、現れた突堤の構造が極めて適切に設計されており、長年にわたって津波の被害から町を護り続けた防波堤の重要性が改めて認められたという。

 浦戸湾の歴史を振り返るとき、地震、津波との闘いは無視できない。1703(宝永元)年の宝永地震の際には「種崎には1本の木も残らず、七百余人の溺死者が海際に漂泊していた」という記録が残されている。昭和に入ってからも21年の昭和南海地震に見舞われ、津波で漁船が流される被害があった。天然の良港とはいえ入江になっているため地震が発生した際の被害は小さくない。その度に修港と整備に苦心してきた人々の築港に対する精神が、ここ高知の港に連綿と受け継がれている。

港奥部の弘化台地区

「土佐日記」当時の浦戸湾の情景(「浦土湾 古代之図」高知県立図書館蔵)

仁井田地区の木材ふ頭

大阪−高知間のフェリー基地となっている潮江地区

高知県港湾空港局 坂本良一港湾課長

五台山から眺める高知港の夕景