『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

薩摩半島の最先端、坊津(ぼうのつ)港はかつて遣唐使船の寄港地として、また鑑真上人の上陸地として遠く中国にもその名を知られた国際港だった。坊津を玄関口として華やかな大陸文化が到来し、そのさまざまな文物や宗教が日本文化を大いに発展させている。文化の最先端基地であった坊津に歴史の面影を見る。

坊泊漁港、坊地区の光景。静かな入江に漁船が浮かぶ、のんびりとした光景だ

坊津

遣唐使船が行き交った九州最南端の港

 鹿児島県・薩摩半島の先端、西側に位置する坊津港。リアス式海岸特有の複雑な地形に守られた天然の良港だ。

 坊津には秋目(あきめ)、久志(くし)、丸木(まるき)、泊(とまり)、坊(ぼう)の5つの港がある。いずれもこじんまりとした漁港だ。坂の多い町には、港を見下ろすようにして家が並ぶ。おだやかな波が打ち寄せるこの坊津はかつて、遣唐使船の寄港地として栄えた国際的な港だった。

 遣唐使船は7世紀まで朝鮮半島を経由する北路をとっていたが、新羅が朝鮮半島を征圧すると日本との関係が悪化したために、北路が使えなくなる。そのため8世紀以降は九州の北側を通って長崎の五島列島に寄り、そこから唐に向かう南路が使われるようになった。唐から日本に戻る際、冬の北西の季節風にのって沖縄や奄美諸島に寄港し、黒潮にのって北上して本土で最初に到着する港が坊津だったのである。

 そもそも「坊津」の名の由来からしてインターナショナルだ。583年、百済から僧日羅(にちら)が仏教を広めるため来日し、ここに坊舎を建てたことが地名のもとになっている、というのだ。

 坊津は唐との交易港として栄え、唐の書物にも伊勢の安濃津(あのつ)(三重県津市)、筑前の博多津(福岡県福岡市)とともに「日本三津(さんしん)」としてうたわれるほどになった。日本では入唐道(にっとうどう)、唐湊(からみなと)と呼ばれる、まさに大陸への玄関口だったのである。

 日羅が建てた坊舎はその後も発展し、1133(長承2)年、鳥羽上皇から「一乗院」の勅号を受ける。当時は坊津だけで18、薩摩大隅地方では47もの末寺を抱える大きな寺だった、という。

台風の大波による漁船の破損を避けるため、力を合わせて船を陸に揚げる。ここではイカ釣り船が多い

江戸時代の末か明治の初めに作られた石管水道を復元した親水公園。水道は鰹節製造の納屋まで水を引くために作られたものと言われている

坊泊小学校の裏手にある「上人墓地」は、南北朝時代から明治維新までの一乗院の歴代住持の墓。りっぱな石の箱が並ぶ

一乗院上人墓の慰霊塔。素朴な信仰が息づいている