『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

海を越えたオホーツク海洋民族

 紋別市立博物館学芸員の佐藤和利さんも紋別の海を見つめ続ける一人だ。「5世紀から10世紀にかけてオホーツク沿岸で縄文ともアイヌとも明らかに異なる特殊な文化があったんです」と「古代オホーツク文化」について語り始めた。「文化圏が流氷域と重なることから『流氷民族』とか『アジアのヴァイキング』と呼ばれています。狩猟や漁撈を行いながら、北方から船でオホーツクの海を渡り、北海道の北部、東部までやってきたんですね」。クジラや海獣を狩猟し、その毛皮を持ってサハリンやアムール川流域から、津軽海峡を南下して奥羽地方まで交易を行っていたらしい。大型の海洋性生物を狩ることができる狩猟技術、大型船を巧みに操る操船、造船技術など相当高度な文化を有していたことが窺える。「しかし、彼等は突然渡来した時と同じようにこつ然と歴史の舞台から姿を消してしまうんです。多分、周辺の民族との軋轢もあり、衝突をくり返すうちに取り込まれてしまったのでしょう」と佐藤さんは推測する。「ダイナミックでありながら非常に謎の多いロマンチックな民族ですね」。

 大陸から海洋民族がここ紋別にも暮らしていた。巨大なトドやクジラに勇猛に立ち向かい、毛皮に身を包み、流氷を蹴散らしながら海を渡っていった。彼等が命を賭して船を駆ったオホーツクの海は、今日も紋別港の目の前に厳然と広がっている。

 冬の紋別は押し寄せる流氷に閉じ込められてしまう。港では船もその姿を潜め、海面は雪と氷に覆われ岸壁との境も定かではない。しかし厳しい風雪にさらされた厳冬の季節であっても、港とともに暮らす人たちはどこまでもおおらかで、暖かかった。

オホーツク文化の解明に取り組む紋別市立博物館の佐藤和利学芸員

流氷の海原を悠然とオオワシが飛ぶ

紋別の周辺では夏になると豊かな緑に覆われた原野が姿を現す

写真/西山芳一

COLUMN

流氷を体感する紋別港のランドマーク

 「海と人とのふれあいの場」を目指し整備されたのが、港南地区の「ガリヤゾーン」だ。「オホーツクタワー」はこのエリアのみならず、紋別港全体のシンボルとして、親しまれている。バルコニーからはオホーツクの海を覆う流氷群の壮大な風景を一望できる。

 施設は延べ面積2,344㎡で、1階から4階までの上部構造と、1階から海底に至る下部構造、さらに防波堤とタワーを結ぶ渡海橋の3構造から構成されている。この3構造を別々に製作し、起重機船で海底に据え付るという工法によって建造された。

 オホーツクタワーは国内の海中展望塔が従来鋼製であるのに対し、海中部の構造が鉄筋コンクリート製で、さらに波や流氷にさらされる上部は耐用年数100年を想定し、チタンと鋼板を張り合わせたチタンクラッド鋼によって防護されている。また、海中階の規模は外径23mと国内最大規模だ。流氷を下から観察できる3ケ所の斜窓や、防波堤の変位にも対応できる渡海橋部分などの特長を持っている。

 別々に製作された3つの構造物の据付工事は、紋別の海がもっとも穏やかになる7月に計画されたため、本体の製作は体感温度が−18℃にも達する厳冬期の工事になった。

 1994年8月に着工し、1996年2月に竣工したオホーツクタワーはクリオネプロムナードとともに「土木学会技術賞」を受賞した。世界初の流氷観測施設であるとともに、紋別を訪れる人々を流氷の世界に誘う「海の案内人」として活躍している。