『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

種子島の新しい顔、島間港と穏やかな時間が流れる漁港

 種子島の、物資の流通拠点は西之表港だ。しかし島の海岸線をたどっていくと海に向けられた小窓ともいえるようなかわいらしい港が30以上も点在している。地元の漁師たちの漁港である。小規模とはいえ岩礁をうまく活用しながらケーソンで防波堤を築き黒潮から漁船をしっかりと護っている。観光客やダイバーを案内するプレジャーボートの基地としても機能しているようだ。どの港にものどかな時間が流れている。「小さな港が多いのも種子島の特徴かも知れませんね。漁師さんたちが長い距離を航行しなくても済むように古くから漁港がたくさんあったようです」と話すのは熊毛支庁土木課の永山正樹主事。「西之表ばかりではなく南側の島間港も大型観光船が寄港する港で、現在整備が進められています」という永山主事の言葉を聞いて、早速島間港を訪ねることにした。

 島間港は昭和49年に−4.0mの物揚場が建設されたのを皮切りに整備が進められた。平成11年には−7.5mの岸壁が供用され種子島のもう一つの顔ともいえる港になりつつある。農産物や日用品、宇宙開発事業団のロケット資材の搬出入や、屋久島とを結ぶ定期船の発着に利用されている。本土との定期航路はないが、種子島の観光資源の有効活用という点では今後の整備が期待されている。確かに港には大型の客船が停泊しており、島内を巡るバスが乗船客を待ってスタンバイしていた。

 世界遺産に登録された屋久島同様、種子島の大きな産業の一つに観光がある。島内は港を起点に細かく道路が整備されており、海岸線を車で走るだけでもその景色を楽しむことができる。コバルトブルーの海はもちろん、ガジュマルをはじめイヌマキやメヒルギなど本土ではあまり目にすることのない植物の自生地も貴重な風景だ。島の南にはロケット施設を擁する種子島宇宙センターがあり隣接する宇宙科学技術館では宇宙旅行気分を味わえる。さらに鹿児島港と西之表港を1時間半で結ぶ超高速船ジェットフォイル通称「トッピー」が観光客の誘致に大きく貢献した。「トビウオ」の島言葉を冠されたこの船が、従来の船だと4時間程度かかっていた本土との距離を飛躍的に短縮し、海上交通の足として活躍している

 かつて鉄砲を通して未知なる異国の文化を伝えた種子島の港が、現在、観光や産業、そして島民の暮らしを支える港として成長を続けている。

島間港全景

島間港でも荒波から船を護る港湾整備が進められている

島間港に入港した本土と種子島、屋久島を結ぶ大型客船

本土では珍しい「ガジュマル」の防潮林

島内に点在する漁港には穏やかな時間が流れていた

よきの海水浴場をはじめ美しい海岸が島内に点在している

写真/西山芳一

COLUMN

もう一つの漂着物語「カシミア号事件」

 鉄砲が伝来した経緯は「南蛮船が漂着」したことが発端と伝えられているが、実際に種子島に現れた船は明船であり、「漂着」というよりも避難するために寄港したという趣が強い。しかし明治期に起きたこの事件は明らかな漂着事件といえるだろう。

 1885(明治18)年9月15日、西之表市立山の舞床海岸に、異様な風体の巨人ともいえる大男が7名漂着しているのを村人が発見。さらに5日後、15kmほど北の伊関村の海岸にその仲間と思われる5名が流れ着いた。村人たちは総出で手当をし、懇切丁寧に世話をした後、馬を使って西之表まで送った。漂着者はその土地の者に略奪されたり、殺害されることもあった時代である。屈強な船乗りたちは心のこもった村人の親切に涙を流して感謝したという。この男たちはアメリカの帆船「カシミア号」の船員だった。同船は石油3万4千箱を積載してフィラデルフィアを出港、大西洋を横断しインド洋、太平洋を経て7カ月という長い航海の末、兵庫港を目指していたが、種子島の沖合2百里、目的の港を目前にして猛烈な嵐に巻き込まれ沈没した。乗組員15名のうち3名は行方不明、残った12名が二手に分かれて船を脱出したのだった。たどり着いた地で地元の教師と片言の英語や筆談で意志を伝え合ったというのが鉄砲伝来のエピソードを思い起こさせる。

 アメリカ国民はこのことに深く感銘し、クリーブランド大統領は種子島に金25円と金のメダルを贈った。メダルは太平洋を越えた友情の証しとして今でも鉄砲博物館に収められている。

立山の海岸にある記念碑が日米の友情を伝えている