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『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

水辺の憩いの場として新たな期待を集める

 昭和40年代から平成にかけてフェリーの就航、コンテナ航路の開設と、苫小牧港は飛躍的に成長してきた。そして今「親水空間の創出」という新たなテーマに挑んでいる。苫小牧港管理組合にお話を伺った。「現在、苫小牧港では海と市民が触れ合える場として、『勇払マリーナ』や『ふるさと海岸』などの整備を進めています。海洋性レクリエーション機能の充実が西港区整備の大きな事業のひとつです」(企画課平賀一雄課長)。港の緑地整備に対する積極的な要請も寄せられているという。「小中学生が自由研究などで港のことを尋ねてくることもありますし、8月の港まつりでは市民に港務艇に乗船してもらい港内を案内します。海から陸側を眺める機会などめったにありませんから大好評です」(企画課勝田正昭課長補佐)。市民の海、港に対する意識の高まりが伺える。

 西港区と東港区の中間に建設中の勇払マリーナは来年度の供用開始に向け、駐車場の整備など最後の仕上げ段階に入っていた。3つの防波堤に囲まれたマリーナは波も穏やかで、単なる係留施設に止まらず、人工海浜、緑地などを擁する理想的な親水空間になりそうだ。防波堤の港内側が舗装され、屋根をもつ海上回廊になっていた。完成を心待ちにしている市民も多く、ここで海釣りやイベントを楽しみたいという声も寄せられている。

 砂浜での港湾建設は不可能であるという常識を破り、北日本の物流を支える一大港湾に成長した苫小牧港。この夏には人と海辺を結ぶ憩いの空間として新しい顔を見せてくれることだろう。

昭和37年の苫小牧港。翌年の開港を控え掘込みが進む。海岸線を走る日高本線はこの後大きく北側に移設された(写真:志方写真工芸社)

勇払マリーナの完成予想図。そのオープンを市民が心待ちにしている

完成間近の勇払マリーナ防波堤。水辺の回廊から美しい風景を楽しむことができる

クルーザーやヨットの係留施設のみならず、人工海浜や緑地が整備されるマリーナ

勇払マリーナから西港区を遠望する。雪を頂いた樽前山との調和が美しい

美しく整備された西港区西側に位置する「ふるさと海岸」

写真/西山芳一

COLUMN

江戸から蝦夷へ、海を渡った千人同心

 1800(寛政12)年春、甲州八王子からはるか蝦夷地を目指して旅立つ100人の男たちがいた。千人同心の千人頭原半左衛門、弟新介とその子弟たちである。

 徳川家康が江戸城に入り関八州を治めることにになった天正年間、甲州の守りと北条の遺臣を鎮圧する目的で、武田の旧臣を八王子城下において組織したのが「八王子千人同心」の始まりだ。100人ずつ10組で構成され、組毎に1人の同心頭と10人の組頭によって統率されていた。騎馬や武術に優れた武士としての誇りも高く、また学問的にも傑出した人も少なくなかったという。幕府直属の郷士として俸給も与えられていたが、実際には半士半農という特殊な地位に置かれていた。

 天明の大飢饉以来農村は大きな被害を受け、同心たちの生活も逼迫したものとなる。彼らは自ら願い出て蝦夷地へ渡ることを決意した。折しもロシアなどの外国船が蝦夷地近海に出没しており、幕府は蝦夷地の警護と開拓を目的として移住を許可する。

 勇払に到着した新介はここにとどまり、半左衛門はさらに白糖へ向かい、血のにじむような開拓事業が始まった。しかし厳しい自然条件のなか、想像をはるかに越える寒気との闘いで同心たちは次々と命を落としていく。結果、開墾地は入植後4年で放棄されてしまった。

 八王子千人同心たちの開拓者魂はその後の屯田兵に引き継がれ、北海道開拓史の先駆的な役割を演じたといえる。散在していた彼らの墓碑は昭和30年、一同に集められ、いまは「勇払開拓史跡公園」の敷地内から勇払の町を静かに見守っている。

市開基百年記念に建てられた顕彰の像