『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

「越中富山の薬売り」たちの活動拠点 富山港 富山地区/富山市

 富山平野を北流する神通川の旧河口を利用して整備されたのが富山港だ。古くは東岩瀬港と呼ばれたこのエリアは、河口に接して海底峡谷、俗称「あいがめ」が大型船舶の入港を円滑にし、神通川からの漂砂が流入しない良港である。

 江戸期に北前船の航路が形成された頃からこの一帯は岩瀬と呼ばれ港町として栄えてきた。物資の運搬料で利潤を得るのではなく、船頭が荷を買い上げ、それを各地の港で販売した。いわば海の行商、移動市場であった。こうした先進的な発想が富山独自の文化や新しい産業を興す原動力となったのだ。

 1639(寛永16)年、前田利次が富山藩10万石の初代藩主となって以来、富山城の城下町として発展し、この頃から積極的な産業政策が展開されるようになる。北陸道の拠点、飛騨街道の起点として行商人たちで大変な賑わいであったという。中でも「越中富山の薬売り」として親しまれた売薬商人たちが全国を股にかけて行商し、「先用後利」という独自の配置制度を確立していた。代表的な薬「反魂丹」の由緒書によると、備前岡山の医師万代常閑が、富山藩2代藩主前田正甫に招かれて調整したのが始まりとされている。これを機に封建時代の当時としてはめずらしく領地外での商売が許可され、藩の奨励と庇護のもと、殖産興業の一環として売薬行商が全国展開されたのである。彼らの活動ルートは北陸街道、飛騨街道の陸路と、西回りの航路であった。薬種は大阪で仕入れられ、琵琶湖と日本海の海運を利用して富山にもたらされた。町中には今でも反魂丹の暖簾を掲げる店や、回船問屋の屋敷跡が残されており、港町としての往時の繁栄を訪れる人々に伝えている。

輝く弁財天が見守る「アルミ」の港 富山新港 新湊地区/新湊市

 伏木港と富山港の間に位置する新湊市の富山新港は1.8haの放生津潟を利用した掘込港湾で、富山高岡新産業都市の新しい流通拠点として昭和43年に開港した。三地区のうち最も新しい港である。浚渫土砂を活用して造成された背後工業用地(約430ha)には、98社が立地し一大臨海工業地帯を形成している。日本海側有数の5万t級岸壁をはじめ、1万5千t級舶船6隻を係留できる岸壁を有し、ガントリークレーンなど荷役設備も充実している。多目的国際ターミナルの整備も進行中で、いまや伏木富山港の中核的役割を果たす港湾に成長した。

 後背地に広がる臨海工業地帯の基幹産業は黒部川、神通川などの電源開発によって得られた低廉な電力を活用したアルミ関連産業だ。そのシンボルとして建立された高さ9.2mの高純度アルミ製の弁財天が、海上安全の守護神として港を見守っている。

 富山新港のもう一つの自慢が「海王丸」だ。平成4年から西埋立地に恒久展示されている。昭和5年に建造された旧運輸省所属の大型練習船で「海の貴婦人」「太平洋の白鳥」と称えられた帆船だ。周辺は「海王丸パーク」として整備され、毎月1回優雅な海王丸の総帆展帆を披露するほか、夜間のイルミネーションも人気を集め、新しいベイエリアスポットとして市民に親しまれている。

 市内に目を転じ、内川に架かる15の橋をたどるとさまざまな水辺の風情に出会う。屋根に覆われた東橋は川面に赤い色を映し、神楽橋の欄干に施されたステンドグラスは夕景に映える。手の彫刻を持つ山王橋もユニークだ。いかにも水辺の町にふさわしい風景だ。

全国に名を知らしめた「越中反魂丹」の暖簾。「体に魂を呼び戻す妙薬」というのがその名の由来。400年を経た今でも販売されているロングセラーだ

海とのふれあいの場となっている富山港展望台。富山湾、能登半島、立山連峰が一望できる

北前船の回船問屋の様式が残されている森家の内部。明治11年に再建されたものだが、梁や柱から威厳が伝わってくる

神通川の河口に位置する富山港。原油、原木など資材の集散拠点となっている(写真:富山県)

昭和43年に開港した富山新港。伏木富山港の中核的な役割を果たしている(写真:富山県)

富山港と伏木港の中間に位置する富山新港。後背地はアルミ産業をはじめとする臨海工業地帯を形成している

美しく整備された海王丸パーク。海の貴婦人、海王丸が係留され、休日には多くの市民でにぎわう

内川に架かる赤い屋根をもつ「東橋」。この付近では彫刻のある「山王橋」やステンドグラスの欄干がある「神楽橋」などとともに水辺の風景を楽しむことができる