『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

明治以降の日本の近代化の礎となった薩摩藩

 斉彬の造船事業や集成館事業は当時、訪れたオランダ人も驚嘆させるほどの水準を誇っていた。しかし彼が志なかばにして1858(安政5)年に急死した後、斉彬の政策に批判的だった島津斉興(しまづなりおき)が実権を握ったこともあり、斉彬の事業は廃止、あるいは縮小されてしまった。

 そんな折り、1863(文久3)年に薩英戦争が起こる。このころすでに薩摩藩の軍備は旧式になっており、イギリス軍によって砲台はほとんど破壊され、集成館の工場群も焼失してしまった。

 イギリスの高度な軍事力や科学技術を目の当たりにした薩摩藩では、集成館事業で洋式技術を導入した斉彬の先見性を痛感する。そこで薩摩藩は、幕府の海外渡航の禁を破り、19名の留学生と視察団をひそかにイギリスに送った。留学生たちは初めて接するヨーロッパの高度な文明に驚き、自らの無知を恥じる。彼らはロンドン大学で学んだ後、アメリカにわたったり、帰国して明治政府のもとで活躍している。また視察団として同行した人々は藩命によって紡績機械を輸入し、イギリス人技師とともに帰国して1867(慶応3)年、磯に日本で初めての機械紡績工場である鹿児島紡績所を設立した。近代日本を支えた主力産業となる紡績も、鹿児島から始まったのである。薩英戦争で焼失した集成館も再興され、蒸気機械工場などが整備される。こうして、薩摩藩は日本でも最先端の軍事力・工業力を誇るようになった。

 この成果は翌年おこった戊辰戦争で発揮され、薩摩・長州両藩を主力とする新政府軍が旧幕府軍を破る原動力となる。こうして日本を近代化する、という斉彬の夢は、明治政府に受け継がれることになった。

 現在の鹿児島港では斉彬らが残した歴史的建造物を活用しながら、観光や市民生活を重視した開発を進められている。

 蒸気機械工場は当時の技術を展示する博物館「尚古集成館」として公開され、鹿児島紡績所のイギリス人技師の宿舎は「異人館」として観光スポットに生まれ変わった。また、薩英戦争で破壊されてしまった高炉や反射炉を発掘し、当時の技術を復元しようとする研究も行われている。鹿児島港でもアメニティを重視した再開発計画が進行中だ。国際化の時代を迎え、幕末に積極的に海外との交流をはかった鹿児島港の進取の精神が再び注目されている。

異人館は、鹿児島紡績所に招かれたイギリス人技師の宿舎だったもの。異国情緒ある和洋折衷の建物だ

H2ロケットの実物大模型が立つ錦江湾公園。運動広場やキャンプ場がある

JR西鹿児島駅前に立つ「若き薩摩の群像」。薩英戦争後、イギリスに留学した若者たちを記念して建てられた

平成9年、本港地区にオープンしたかごしま水族館。外壁は海を連想させる色使いになっている

平成10年から供用開始となった桜島フェリーターミナル。波のような曲線の屋根が印象的だ

ベンチから海が眺められるボードウォークは、海辺の新しい憩いのスペースだ

COLUMN

歴史的な土木・港湾施設を観光資源として活用する

 史料によると、薩摩藩では数多くの波止(はと)(防波堤)や岸岐(がんぎ)(岸壁、物揚場)を築造しているが、現在往時の姿を見ることができるのは、弘化~嘉永年間に築造されたと見られる「新波止」のみだ。ていねいに積まれた石組みが、港にかける薩摩藩の思いを物語る。ここは平成3年から9年にかけて隣接する一丁台場とともに緑地整備が行われ、歴史をしのばせる憩いの場となった。

 また鹿児島市内を流れる甲突川(こうつきがわ)にかかっていた五石橋(ごせっきょう)のうち、西田橋など3本の橋を水害から守るため、錦江湾に近い祇園之洲(ぎおんのす)公園に移設。五石橋は江戸時代最大の石橋群で、鹿児島のシンボルとして親しまれてきた。解体・移設工事によって明らかになった石組みの加工は、きわめて精密なものである。敷地内には明治初期まで西田橋の東側にあった門も復元し、桜島を背景に橋を眺めることができる資料館も併設される。

 このほかJR鹿児島駅にほど近い本港地区では、ウォーターフロント開発計画「マリンテラス・鹿児島」が進められている。ここでは亜熱帯植物を配置するなど、鹿児島の自然と歴史をふまえた景観となるよう配慮されている。歩道にはレンガや自然石など、石造りの薩摩文化を思わせる素材が使用された。また、船やヨットの出入りを眺められるよう、建物の高さなどに注意するように求めている。この計画に基づき、すでに離島航路を利用する旅客のためのターミナルビルやかごしま水族館、ボードウォークが整備された。これらの施設によって、錦江湾から桜島を望む美しい眺望がより魅力的なものとなっている。

新波止を利用した緑地と桜島フェリー

祇園之洲公園に移設された高麗橋