名作が生まれた港

名作が生まれた港

小豆島は静謐な海に浮かぶ『オリーブ』の島


尾崎放哉句集 Ozaki Housai Kusyu

尾崎放哉は、種田山頭火と並ぶ自由律俳句の先駆者であり、また漂泊の俳人でもあった。「咳をしても一人」、「こんなよい月を一人で見て寝る」、「考えごとをしている田螺が歩いている」など、季語を廃し、心の赴くままに言葉をつむいだ尾崎放哉。ダイナミックな作風の山頭火に対し、放哉は宗教的・哲学的な無常観と諦念に満ちた閑寂な作風が特徴である。句集は放哉の死後、師の荻原井泉水が纏めた『大空』(春秋社)が唯一のものだが、現在も様々な編者による『尾崎放哉句集』が出版されている。


島で詠まれた寂しげな一句

 小豆島といえば、戦後、壺井栄の小説『二十四の瞳』の舞台となったことで全国的な知名度を得て以来、平成の今となっても、全国から多くの旅人が訪れる。名産は温暖な気候を活かしたオリーブの栽培で、島の随所にやや丈の低いオリーブの木を見ることができる。本州や四国からこの島を訪れる旅人の玄関口となるのは、島の北西部にある土庄(とのしょう)港。岡山からおよそ1時間余りかけ、フェリーが離島らしい素朴な雰囲気の港に到着すると、瀬戸内の島ならではの柔らかい潮風が、身体を包むように吹く。
 港から車を走らせること5分ほどで、西光寺という古刹に着く。今日の目的地は、寺の向かい側にある尾崎放哉記念館だ。
 「咳をしても一人」
 誰もが国語の教科書などで目にしたことのある、この自由律の俳句は、なんとも寂寥感ただよう名句であり、陽射しあふれる、この小豆島とはなんのかかわりもないように思える。しかし、放哉がこの句を読んだのはこの島であり、しかもそれは彼の最晩年の残り少ない日々の中でのことだった。

土庄港には岡山〜小豆島フェリーが寄航する


酒と病に翻弄されたエリート青年

 尾崎放哉(本名・秀雄)は、1885(明治18)年、鳥取市に生まれた。裁判所の書記であった父・信三と母・なかの次男として生まれた秀雄は、14歳の時に、すでに俳句を作りはじめていた。17歳にして第一高等学校(現在の東京大学の前身)の文科に入学。彼の1年先輩には、後に師となる荻原井泉水がおり、入学翌年には一高俳句会に参加する。
 しかし放哉はこのまま俳人として世に出るのではなく、東京帝国大学法学部に進学、卒業後は生命保険会社に就職し、家庭ももった。つまり文人の道ではなく、一高〜帝大から保険会社の要職と、いわばエリートコースを歩んで行ったのだ。その結果、29歳の若さにして大阪支店次長となるスピード出世を遂げる。また東京本社に帰任の後は、井泉水が創刊した『層雲』に自作の句を寄稿するなど、俳句への情熱も捨ててはいなかったようだ。
 ところが、放哉の順調な人生もこの頃までであった。第一次大戦後の大恐慌の真っ只中という不安な世相のなか、彼は次第に酒に溺れるようになる。結局、36歳で課長職を罷免されて退職。翌年、同業他社に就職して朝鮮に赴任するも、半年で肋膜炎を発病、さらに禁酒の約束を破ったことで、再び会社を罷免される。ここで今度は満州に渡り再起を期すが、持病の肋膜炎が悪化して帰国。妻とも別居に至った。38歳の尾崎放哉は、まさに青年時のエリート街道から、どん底に転がり落ちていた。

南郷庵跡に開設された尾崎放哉記念館[写真提供:尾崎放哉記念館]


最後の安住の地・小豆島の日々

 妻と別れて以来、尾崎放哉の人生は、漂泊の日々となる。寺男として寺院での仮住まいを繰り返す生活には、かつてのエリートの面影こそ微塵もないが、俳人としてはこの頃から膨大な量の句を読み、次第にその才能を開花させていった。
 こうして1925(大正14)年8月20日、40歳になった放哉は、小豆島霊場第五十八番札所・西光寺奥の院である南郷庵に入る。これは師である井泉水と小豆島在住の『層雲』同人・井上一二、そして西光寺住職の尽力によるものであり、小豆島は放哉にとって最後の安住の地となる。
 瀬戸の海に近い二間の小さな庵での生活は、創作にはかけがえのない暮らしであっただろう。この小豆島・南郷庵(みなんごあん)時代こそ、俳人・尾崎放哉の最盛期であった。「咳をしても一人」の句も、この時期の作品である。つまり、この一見寂しげで無常観あふれる句は、むしろ安寧静謐の地を捜し求めた漂泊の俳人が、ついに見つけた閑寂の境地を詠んだのではないだろうか。咳をしても1人きりの、濃密で静寂な時を過ごす。これは優れた文人にとって、かけがえのないものだったのではないだろうか。
 1926(大正15)年4月7日、放哉は南郷庵で42年の短い生涯を閉じた。小豆島に着いてから、わずか8か月足らずである。島で詠んだ作品の数々は、放哉の死後、井泉水によってまとめられ、唯一の句集『大空(たいくう)』として刊行された。
 漂泊の俳人が見た小豆島の大空は、今も当時と変わらぬ青さで、島の周囲に広がっている。

館内には放哉の作品や書簡などが常設展示されている[写真提供:尾崎放哉記念館]

西光寺に建てられた放哉と種田山頭火の句碑[写真提供:尾崎放哉記念館]