名作が生まれた港

名作が生まれた港

日本を代表する景勝地・伊勢志摩


浮草 Ukikusa

監督・脚本:小津安二郎、撮影:宮川一夫、出演:二代目中村鴈治郎、京マチ子、若尾文子ほか。松竹所属の小津が、大映で製作した唯一の作品。旅役者の世界の情緒を際立たせた佳作として支持されている。物語は、旅芸人の一座が、座長がかつて自分の子供を生ませた女・おつねの住む港町へ公演に赴き、そこで巻き起こる人間ドラマを、小津ならではの静かで完成された演出で描く。


絵画的な時が流れる場所

 三重県志摩市大王町は、沿岸漁業が主な産業となる素朴な風情の港町だ。小型の漁船が静かに係留されている波切(なきり)漁港、白亜の灯台が青海原と空に映える大王埼灯台、坂道に軒を連ねる民家の風景など、風光明媚な景観が人気で、この町に絵を描きにくる人が多いことから、「絵かきの町」とも呼ばれている。
 小春日和の昼下がり。漁港からふらりと歩き出し、人通りも少ない坂道を登っていく。ときおり、民家の合間から姿を見せる波切の海は、どこまでも静かで青く、頬をなでる潮風の香りがなんとも心地よい。その一方で、見知らぬ海辺の町の坂道を歩いていると、まるで時が止まってしまったような、不思議な白昼夢を見ているような気分にもなる。はっとして立ちすくむと、地元のご婦人が軽く会釈をしながら港の仕事着姿で通り過ぎ、ふと我に返る…。
 どうもこの町には、何か静謐で絵画的な時と風景が、現在も色濃く残っているように思えてならない。

波切漁港のひなびた空気が巨匠たちの心を捉えた


映画人をひきつけたロケの名所

 日本の映画産業が黄金期を迎えていた1950〜1970年代、ここ大王町は20本を超える映画のロケ地となり、時には複数の映画の出演俳優や撮影スタッフが町に滞在し、大いに賑わいを見せた。その後、邦画の人気低迷で、こうした賑わいも一時的に衰退したが、一帯の美しい風景と港町ののどかな風情はテレビドラマのロケ地として関係者に知られ、多くの作品が撮影された。さらに近年では、地元にフィルム・コミッションが設立され、往時のような映画撮影ロケ地としても再注目されている。
 これら大王町で撮影されたドラマや映画のなかでも、日本映画の巨匠として戦前から昭和30年代にかけて活躍した監督・小津安二郎の名作『浮草』は、波切を中心に全編が志摩を舞台にした作品として知られている。小津といえば、地面ぎりぎりのローアングルと、正面からの切り返しのフィクスショットが特徴的であり、活劇とは対照的な、家族の間で起こる静かな葛藤の物語を丁寧に描く映画作家として、黒澤明、溝口健二と並び、世界的に有名だ。
 そんな巨匠が、旅芸人の一座が巡業先の港町で出会う人間ドラマを、素朴で明るい志摩の風景をバックに淡々と描いたのが、1959(昭和34)年製作の映画『浮草』である。この作品は、監督の小津が、戦前の1934(昭和9)年に撮影したモノクロ無声映画である『浮草物語』をセルフ・リメイクしたものであり、それだけ監督自身、この物語に愛着があったのだろう。

作品中で旅芸人たちを迎えた大王埼灯台


巨匠が愛した海辺の風景

 小津がリメイク作品である『浮草』のロケ地に大王町を選んだのは、自身の青春時代の思い出に対する憧憬があったからかもしれない。小津は東京に生まれたが、9歳の時、父の故郷である三重県松坂へ移り、以後、浪人時期や映画界に入る前の代用教員時代などを三重県で過ごした。その後、日本映画界の名監督として活躍した小津が、生涯でただ一度、三重県でロケを行った作品が『浮草』であった。
 この地での撮影は、同年8月19〜28日まで、真夏の炎天下のなかで行われた。小津の日記には、「八月十九日(水) 波切に十時につく 小憩ののち ロケハン 夜盆踊りを見にゆく 竜王閣泊」、「八月二十日(木) ロケハン 志島 甲賀 波切を見る 夜 地元有力者と会食打合わせをする 本隊この日 東京発」などと、当時の撮影の様子が記されている。撮影時、小津は大王町を「東洋のニース」「東海の尾道」と称した。とくに前者は地元の人々や小津ファンのあいだでよく知られている。
 波切は石工の町としても知られている。現在は採取されないが、玄武岩のような硬い良質の「波切石」と呼ばれる石材を産した。この石を利用して町が作られたため、町並みは個性的な魅力を持っている。あくせくとした都会での生活にはない、心和ませる町の風情が、巨匠をして感慨に浸らしめたのであろう。
 映画では冒頭、旅芸人の一座が海辺の町を訪れるシーンで印象的に使われる漁港の灯台をはじめ、長野町の坂道、波切漁港などが、抒情あふれる物語の背景になっている。なかでも伝三坂のある天満地域は、特に小津が好んだ場所であったという。

 波切へは まだもう一里
 道の辺の 石の地蔵に
 秋立つらしも

 こんな歌を日記に記した、小津安二郎が愛した志摩の風景は、いまも変わらずにある。

石壁や石畳が独特の景観を形づくる

趣深い風情の家屋が建ち並ぶ大王町の町並み