名作が生まれた港

名作が生まれた港

現在の青森港は活気あふれるウォーターフロント。ランドマーク「アスパム」の三角形のシェイプがユニークだ


津軽海峡・冬景色 Tsugaru-Kaikyo-Fuyu-Geshiki

作詞:阿久悠、作曲:三木たかし、歌:石川さゆり。1976(昭和51)年11月に発売され、翌1977(昭和52)年大ヒット。この曲で石川さゆりは同年の日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。NHK紅白歌合戦の初出場を果たし、演歌のスター歌手となった。そのほか同曲は日本歌謡大賞放送音楽賞、日本作詞大賞大衆賞なども受賞。以後も歌手・石川さゆりの代表曲の1つとして、現在まで累計73万枚の売り上げを記録している。


連絡船の脇にたたずむ歌碑

 青森と函館、2つの港を結ぶ青函連絡船の運航が終了したのは1988(昭和63)年3月。同年6月に開催された青函博に合わせて復活、臨時運行されたが、これも約3か月の期間限定だった。1908(明治41)年の就航以来、のべ約1億6,000万人の人と約2億5,000万tの貨物を乗せた80年にわたる連絡船の歴史はこうして終了した。
 それからおよそ20年の月日が流れた平成の今、青森港も函館港も、連絡船が桟橋をゆっくりと離れ、見送りの人々と乗客たちが手をふった叙情的な面影はない。それぞれ本州と北海道の玄関口にふさわしい、きわめて都会的なたたずまいを見せている。その変貌ぶりは、伝統的な異国情緒のイメージが色濃く残る函館よりも、青森のほうが著しいといえるだろう。
 青森港から青森駅方面に目を移せば、アルファベットのAを模した近未来的な青森県観光物産館「アスパム」が建ち、かつての青函博の会場は地域の家族連れや旅行者が憩う「青い海公園」として整備されている。2003(平成15)年には東北初の大型客船対応バースの供用開始が始まるなど、現在の青森港には、活気あふれるウォーターフロントという言葉が良く似合う。
 「昭和」は日一日と遠ざかり、連絡船を知らない世代が増えていくなか、青森港でわずかに当時の名残りを感じさせるのは、旧桟橋にその船体を係留されているかつての青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸と、その横にある『津軽海峡・冬景色』の歌謡碑のみだ。この碑には歌詞が刻んであるだけではなく、人が近づくとセンサーが作動し、自動的に曲が流れる。八甲田丸は青森の観光客の多くが立ち寄るスポット。この仕掛けを知らずに碑を眺めようとする旅行者に、ちょっとした驚きと懐かしい感慨を与える。立ち止まりフルコーラスに耳を傾ける人も多い。まさに現代都市然とした青森の街の一角だけに、哀切さあふれる曲調がことさら際立って聴こえるのだろう。


円高不況と斜陽の連絡船

 『津軽海峡・冬景色』が大ヒットとなったのは、いまからちょうど30年前の1977(昭和52)年。当時は円高不況で企業倒産が相次いでいた。青函連絡船も航空路線の整備や民間フェリー航路の整備などにより旅客・貨物需要のピークはすでに過ぎ去っていた。
 「上野発の夜行列車おりた時から/青森駅は雪の中/北へ帰る人の群れは誰も無口で/海鳴りだけを聞いている」
 阿久悠の詩情豊かな歌詞と三木たかしの情感あふれるメロディ、そして石川さゆりの芯がありながらどこか儚げな歌声は、斜陽に向かいつつあった青函連絡船と津軽の厳しい雪景色、なにより高度経済成長を支えてきながら、不況で苦境にあえいでいた人々への哀歌として受入れられ、以後、平成の現在まで、青函連絡船と青森港を象徴する歌謡曲となった。その累計売り上げは約73万枚に及ぶ。一昨年、NHKが紅白歌合戦の出演者選考に際して行った聴きたい曲に関するアンケートで、有効得票だった約12,500曲のうち紅組の39位にランクインした。


「世間」を歌った昭和の歌

 『津軽海峡・冬景色』を作詞した阿久悠は、後に自身の著書のなかでこう書いている。
 「昭和と平成の間に歌の違いがあるとするなら、昭和が世間を語ったのに、平成では自分だけを語っているということである」(『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮社)。
 かつて、『津軽海峡・冬景色』という歌に心うたれ人知れず口ずさんだのは、言うまでもなく「昭和」を支えてきた人々だ。人一倍働けば、自分も家族も、そして会社も幸せになれる。そう信じてきた市井の人々が、不況という荒波のなかで感じた悲哀。そういう世相を歌い上げた曲だったからこそ、この歌は多くの人に支持され、今も歌い継がれているのだろう。
 あれから30年。新しい時代への活気を感じさせる青森港では、この昭和の人々への哀歌が色あせることはない。


青森港に係留されている青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸

人が近づくと自動的に『津軽海峡・冬景色』が流れる歌謡碑

歌詞に登場する竜飛岬。水平線の向こうに北海道が見える

昭和37年の国鉄青函連絡船青森桟橋の様子。着岸している船は左が羊蹄丸、右は十勝丸

貨物を積んだ列車ごと連絡船で運ぶ貨車航送は、瀬戸内海の宇高航路と青函航路のみで行われていた


[写真提供]青森県/(財)みちのく北方漁船博物館財団