名作が生まれた港

名作が生まれた港

函館港


もともとは東京がモチーフ

 日本コロムビアの専属作詞家として数々のヒット曲を放っていた星野哲郎は、昭和39年、老舗コロムビアから独立した日本クラウンに移籍する。コロムビアのブランドを後ろ盾にすることなく、実力を試したかった。

なかなか好機に恵まれないなか、クラウンのディレクターに「北島三郎と仕事をさせてください」と頼むと「なんでもいいから持っておいで。北海道ものなら使うから」との返答。

 星野はコロムビア時代の昭和37年、北島に「なみだ船」(船村徹作曲)を提供。この曲は第4回日本レコード大賞新人賞に輝いた。星野と北島とは、北島がデビュー前に流しをしていたころからの付き合いだった。

 「(函館の女は)最初、東京へ出てくる歌だった。でもディレクターの言葉で函館に変えた。函館は日魯漁業の本拠地で、船員時代の土地勘があった」(談)

 函館出身の北島は「哲っつぁまとオレは海に生きてきたから、潮のにおいがお互いに分かる」と星野を評す。星野は作詞家になる前、日魯漁業(現ニチロ)の船員として、海に生きていたのだった。

海を離れ病床で作品をしたためる

 星野の出身地は山口県の周防大島町(元東和町)。瀬戸内海に浮かぶ島であり、海の男を育てる環境だ。高等商船学校(現東京商船大学)へ進むも、肺結核が見つかり休学。故郷で静養することとなる。

 終戦を迎え、復調した星野は、中国から復員する人々を日本に輸送しながらの航海実習に参加した。

 昭和22年、函館に本拠を置く日魯漁業に就職。「仕事は340tの漁船に乗り込み器具に油を差すこと。漁場の東シナ海に出ると1ヵ月ぐらい帰れない。辛かったけど楽しかった」(談)
 ところがある日、船のトイレで血尿が。肺の結核菌が腎臓を侵していたのだ。山口に帰り腎臓摘出手術を受けるも失敗。出血が止まらず、床に伏せたまま24歳の星野はぼんやりと死を思っていた。

 そんななか、中学時代からやっていた短歌や小説の執筆が彼の慰めとなる。文芸誌に作品を応募し、たびたび掲載された。

 米国在住のおばから特効薬ストレプトマイシンが大量に届き、結核は完治。しかし「病気のせいで海に捨てられた」挫折感を胸に、懸賞作家を志す。星野の作品は石本美由起、船村徹、古賀政男らの大家に認められ、作詞家への道が開けることとなる。

函館の記憶と生理現象の力

 『函館の女』は昭和40年の大ヒット曲となった。テーマ性やヒット狙いとは無縁な経緯から生まれた作品。しかし「土地勘があった」との星野の言葉が示すとおり、『さか巻く波』『函館山の頂で七つの星が呼んでいる』『灯りさざめく松風町』など、当地の思い出を心に刻む者でなければ描けない表現が見受けられる。歌謡曲の大家に登り詰めた星野は、かつて「海に捨てられた」経験に海への愛着を募らせ、その創作活動で海に救われたのだ。

 では最後にもうひとつ誕生秘話を。

 「『逢いたくて〜』のあとのフレーズが決まらなくて。悩むうちにオシッコに行きたくてたまらなくなっちゃった。で、トイレに行って『これだ!』と思いました。『と〜ても我慢が〜できなかったよ〜』とね」(談)
(敬称略)

作詞家 星野哲郎 Hoshino Tetsuro

1925(大正14)年山口県生まれ、高等商船学校機関科卒業後、日魯漁業下関支社に入社するが、病気のため退社。雑誌の懸賞に応募した詩が入選し、1953(昭和28)年作詞家としてデビュー。1958(昭和33)年に日本コロムビア(株)、1964(昭和39)年に日本クラウン(株)の専属となり、1983(昭和58)年 フリーに。2003(平成15)年、作詞家生活50周年を祝った。代表作は「黄色いさくらんぼ」「三百六十五歩のマーチ」「函館の女」など数え切れない。著書に「いろはにそらしど」(詩集)、「日本の海の歌」(編集)、「遠歌、縁歌、援歌」「紙の舟」(エッセイ集)、「艶歌、演歌、塩歌」(作品集)、「妻から母へ」(朱實遺稿)、「妻への詫び状」(書籍)など。現在、日本作詩家協会会長。


油絵歴は40年に及ぶ。本格的なデッサンの勉強も経験している。作品のモチーフはやはり、海である


函館の女(ひと)
はるばるきたぜ 函館へ
さか巻く波を のりこえて
あとは追うなと 云いながら
うしろ姿で 泣いてた君を
おもいだすたび 逢いたくて
とてもがまんが できなかったよ

函館山の 頂で
七つの星も 呼んでいる
そんな気がして きてみたが
灯りさざめく 松風町は
君の噂も きえはてて
沖の潮風 こころにしみる

迎えにきたぜ 函館へ
見はてぬ夢と 知りながら
忘れられずに とんできた
ここは北国 しぶきもこおる
どこにいるのか この町の
一目だけでも 逢いたかったよ

(JASRAC 出0503838−501)