marine joy みなとから“ぶらり”旅

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アクセス:JR日豊本線中津駅より徒歩10分

独立自尊の精神のふるさと

 中津が輩出した最も著名な偉人は、幕末〜維新の日本で近代化と民主主義を先導した福沢諭吉である。
 諭吉は1835(天保5)年に大坂(大阪)の中津藩屋敷で下士福沢百助の次男として生まれた。1歳6ヵ月のときに父が急死し、母子6人で中津に帰郷。貧しい暮らしのなかで勉学に励む少年時代を送る。最も多感で、かつ知識や体験を自らの血肉として吸収できる年代を中津で過ごし、1854(安政元)年、19歳で蘭学を学ぶために長崎へ遊学した。のちに「西洋事情」「文明論之概略」「学問のすゝめ」ほか数々の名著を記すにいたった向学心と好奇心、ロジカルな思考力の基礎が中津で培われたのである。
 後年、幕府の命を受けて米国や欧州を視察した諭吉は、帰国後に「西洋事情」を刊行。さらに自身が開いた蘭学塾を「慶應義塾」に改名する。
 すでにその名が全国に聞こえるなか、諭吉は維新直後の1870(明治3)年に「中津留別書」を書き、故郷の人々だけに向けて独立自尊と西洋の学問の必要を説いた。翌年には、英学校「中津市学校」を創設。校長には4年後に「学問のすゝめ」を共著する小幡篤次郎を送った。 
 中津に対する諭吉の尽力は、自身が陣頭に立たない形が取られた。それは、名士となった自身の影響を抑えることで、故郷に独立自尊の気風を浸透させるための配慮であった。

周防灘の海岸から夢見た世界

 中津城を見上げるみなとまちの一角に、福沢諭吉が18年間暮らした旧居が残されている。実際に家が建っていた敷地のなかに移築されたもので、間取りは諭吉本人の記憶をもとに図面を起こして再現された。
 旧居に隣接する福沢諭吉記念館には諭吉の生涯や功績を示す貴重な史料が展示されており、没後100年以上を経ても絶えることなく多くの人々が訪れる。
 海外の学問を学んで当時の自国の後進性を痛感し、その思いからさらに勉学に励んだ諭吉。住まいに程近い海岸から臨んだ周防灘の広大な眺めは、彼の志をいっそう強く駆り立てたことだろう。

1860(万延元)年の渡米時に乗った威臨丸の模型

「学問のすゝめ」全17巻も展示

JR中津駅前にそびえ立つ福沢諭吉像。県外の人にはあまり知られていないが、中津は諭吉が幼少〜青年時代を過ごした街である。

旧居の間取りは諭吉本人の記憶に基づいて復元された

旧居の敷地内に建つ福沢諭吉記念館

館内には福沢諭吉の生涯と功績にまつわる史料が多数展示されている

維新前の諭吉の肖像

めしあがれ

ハモ料理
県内はもちろん近県も含め、ハモ料理を名物とするのは中津だけ。その昔、関西圏との交易が盛んだったため京料理の文化が伝わったのか、中津藩が近畿地方に藩の屋敷を置いていたためか、理由は明らかでないという。市内の随所でハモづくしを味わうことができる。

はまぐりしるこ
中津で根強い人気を誇る、伝統の銘菓。蛤形のもなかに穴を開けてお椀に入れ熱湯を注ぐと、もなかのなかの粉末が溶けておしるこに。そして、紅白のかわいい千鳥が現れるというユニークなお菓子。昔から蛤がよく採れて、千鳥が舞ったという中津ならではのお菓子。