Human's voice 技術者たちの熱き想い

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 茨城県霞ヶ浦。国内では琵琶湖に次ぐ面積を誇る湖だ。古来、恵まれた自然資源を活かし、農業、漁業、酪農など各種産業の基盤となってきた。しかし、昭和40年代末から50年代前半にかけ、湖の富栄養化という深刻な問題が起きる。湖面にアオコが発生し、一面が緑色に染まった。この環境汚染に立ち向かうプロジェクトが始まる。そこには、今日の底泥浚渫技術を切り拓く1人の技術者の壮絶なドラマがあった。

緑一色に染まる湖に愕然

 現場技術者にとって、勤務場所が変わるのは宿命のようなものである。だが広瀬は、40数年の仕事の大半を霞ヶ浦で過ごしてきた。誰よりも霞ヶ浦を知る技術者の1人である。
 最初の赴任は昭和42年。ポンプ浚渫船を使って埋め立てる宅地造成の工事だった。2度目は40年代後半。やはりポンプ浚渫船を使った宅地造成だった。この2度目の工事で、その後の広瀬の運命を左右する衝撃的な出来事を経験する。
 「工事途中のことです。湖面にアオコが大量発生し、みるみる間に緑一色に染まっていったんです。衝撃的でした」。
 湖の富栄養化によるものだった。もともと霞ヶ浦周辺は農業、畜産業などに加えて、「真珠を養殖するほどきれいな湖でした」。それが緑一色に染まったのだから、広瀬だけでなく湖の周辺の人々にとっては深刻な問題だった。このころから、霞ヶ浦の水質が問題視されはじめる。このとき、建設省(現国土交通省)は、いまも続く霞ヶ浦の底泥浚渫を決断した。そして昭和49年、広瀬がこの底泥浚渫に携わる。
 最初の工事は、建設省から貸与された吸泥ポンプを使い、「湖底の泥をどの程度、どんな形状で吸泥できるかを試験する」ヘドロ浚渫実験工事だった。「浚渫形状は壺掘りでした」。2年間実施して性能テストを完了する。
 性能テストなどをもとに、建設省は昭和50年、ヘドロ浚渫船「かすみ」を建造した。広瀬は、同年発注された浚渫工事に携わることになる。かすみに横抱きした土運船に排泥し、土捨て場近くに曳航してエアー圧送する工事である。
「まあ、ここまではなんとか順調でしたね」。

高含泥の長距離搬送に挑む

 試練はここから待ち受けていた。昭和51年、やはりかすみを使った浚渫工事だが、それが極めて困難であることを広瀬は直感的に察した。浚渫した底泥を2kmにも及ぶ長距離にわたって直送しなければならないのだ。
 低含泥ならともかく、「高含泥(含泥率50%前後)の長距離搬送は、当時国内ではせいぜい数100mまでで、これだけの長距離送泥は事例がありませんでした。要するに直送方法を新たに開発しなければならないということです」。
 思案に暮れた末、電動式液圧ポンプに目を付けた。これを浚渫泥受入ホッパー、発電機などの必要機器とともに台船に搭載、ようやく試運転までこぎつけた。
 だが結果は無惨だった。どうしても連続排泥できないのだ。ここからポンプメーカーと共同で、ひとつひとつ原因を追求し打開策を探っていく日々が続く。協議、検討、試行、改造の繰り返し。あらゆる実験を試みた。それでも糸口は見つからない。工期はどんどん過ぎていく。それでも広瀬はあきらめなかった。「もし自分が投げ出しても問題が解決するわけではない。他の者が代わりにできるとも考えられない」。そして3ヶ月後。ついに浚渫・送泥システムを完成させ、これまでにない長距離搬送を実現した。
 「解決したポイントは、浚渫泥の含泥率調整(除塵・攪拌)と送泥量の調整(ポンプ回転数)でした」。その後、順調に工事を終えることができたが、「発注者には迷惑をかけました」。

電動式液圧ポンプ

高濃度浚渫船技術を切り拓く

 信念の男・広瀬も、「入社したときすぐに逃げ出すつもりだった」(笑)。一度言い出したら聞かない性格を知り抜いている父は、入社式の日いきなりジープに乗せられて現場に向かう広瀬に同乗した。逃げないようにとの監視のためだった。
 ところが思わぬ良さも発見した。当時、現場は恵まれた設備ではなかったが、「現場事務所にテレビがあり、それがニュースになるほど充実していました」。おまけに食事。山梨生まれで「結婚式でしか食べた記憶がない」刺身がでたというのだ。しかし、広瀬を土木の世界につなぎ止めたのは、こうした会社の待遇ばかりではない。言葉にできない運命的なものがあったのだろう。
 困難な現場で経験を積むことで、どんどん自信もついてきた。とくに高含泥の長距離送泥の技術開発は、広瀬をたくましく成長させた。
 一連の浚渫・送泥のシステムが完成する直前、建設省から新しい底泥浚渫船の建造について、広瀬らの送泥方式を採用したいとの要請があった。「悪戦苦闘の成果が認められた」との思いがあったという。
 こうして建造された建設省の底泥浚渫船「蛟龍」は、底泥を高濃度に浚渫する機能と、長距離の管内送泥を可能にし、当時としては最新の底泥浚渫船だった。
 現在国内にある高濃度浚渫船の原型であり指標となったものである。さらに、この送泥方式を発展させ、中継船「明日霞」による最長19kmもの長距離搬送を実現した。いまも破られていない大記録である。

ダメだダメだでは進歩しない

 霞ヶ浦での一連の仕事を通じて、広瀬は「知恵のつくり方を学んだ」と話す。こうも強調する。「困難に直面したとき、普通の考え方をしていたんではダメなんです。ダメだダメだと受け止めると、もうそこに前進はない。このことを後進に伝えたい」。
 ここまで頑張ってこれたのは、「自分でもわからない」と言葉を濁すが、1ついえることは「プライドなんてない。プライドがないからこそ、何でもチャレンジし克服してこれたのではないか」と続ける。数々の困難を乗り切ってきたからこそ出る言葉だ。
 霞ヶ浦での仕事を通じて、「環境問題には人一倍敏感になりました」。底泥浚渫については漁師さんたちの間にも賛否両論がある。生活がかかっているだけに真剣で、「賛成反対の板挟みでだいぶ悩みました」。技術者である前に1人の人間として真摯に彼らと接し、信頼を得ていった。こうした姿勢も長い間霞ヶ浦で仕事ができた理由でもある。
 泳ぎもできず嫌だ嫌だで始まった水の仕事だが、いまでは霞ヶ浦とそこで活躍した数々の船は、まるで自分の子供のような存在だ。水の仕事に関わってきた喜びと自分が手がけてきた仕事に対する絶対の自信が伝わってくる。
 「家内や娘には、俺が死んだら墓はいらない。霞ヶ浦に散骨してくれといってあります。機会があれば今後も霞ヶ浦の環境浄化に参加したい」といまも現場に意欲を燃やす技術者である。

底泥浚渫船

茨城新聞 2000年3月22日掲載

 ヘドロ浚渫船「かすみ」は、スイング・スパッド方式で、負圧吸泥・空気圧送式(送泥距離30m)。広瀬らの液圧ポンプによるシステムを搭載した「蛟龍」は、掃除機のようにヘドロを吸い込む負圧吸泥方式だった。通常の船の2倍の18年間稼働して約168万㎥ものヘドロを浚渫した。いかにこの船が果たした役割が大きかったかは、引退セレモニー「解役式」が行われたことでもわかる。建設省がこうしたセレモニーを行うのは初めてである。
 「蛟龍」の技術は、その後の建設省の底泥浚渫船「カスミザウルス」に引き継がれた。カスミザウルスのほか中継船「明日霞」の建造にあたっても、構造や性能などで広瀬の意見も反映されている。
 一方で広瀬は、自社の船でも開発責任者として、現場経験で学んだノウハウを徹底的に織り込んでいった。広瀬が手がけた船は5隻にもなり、多大な技術的貢献をもたらした。