21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.16] 滋賀・海津浜石積

武骨な石積に人々の意志

 日本最大の湖である琵琶湖。海津(かいづ)は、琵琶湖北西部の湖岸に位置する。藤原仲実(ふじわらのなかざね)の和歌にも詠まれ、平安末期から栄えていった。最初の城を近江に築いた豊臣秀吉の書簡も、この地の古寺に残されている。発展の要因は、地の利に恵まれたことにあった。「七里半越え」と呼ばれた海津から敦賀までの山越えの道は、北陸と近畿を結ぶ要所だった。さらに、湖上を往来する船便の発達で港としても発展をとげていく。

 江戸時代に入ると、幕府は海津を軍事、交通、経済の重要拠点として直轄地、いわゆる天領としておさえた。世情が安定し人々の往来や貨物量が増えると、船も大型化して商店、旅篭、蔵なども充実、海津はますます活気づいた。

 北前船の航路が整備されたことによって、船問屋は北陸だけでなく北国各地の物産を扱うようになった。当時の大消費地である京都と大坂への荷は、五十石から百石の丸子船で、海津の浜から近江の物流拠点である大津へ運ばれた。三百石積み以上の大型船もあったと伝えられるほどの隆盛ぶりであった。しかし、地名に「海」の名が含まれていることからもわかるように、海のごとく広大な琵琶湖の風波はたびたび海津を襲い、水害をもたらした。

 元禄14年(1701)、西与市左衛門(にしよいちざえもん)が高島郡甲府領の代官として赴任する。彼は、幕府の許可を得て、海津を水害から護る石積を築くことを決定、2年後には東浜668m、西浜495mの波除石積が完成した。それ以降は水害も絶え、村人たちは西与の業績を大いにたたえた。その感謝の念は、今日にいたるまで受け継がれており、毎年3月15日には法要が営まれている。

 栄華を誇った海津であったが、江戸末期になると日本海西廻航路の発達で物流港としての機能はしだいに衰退していった。明治期に蒸気船の桟橋もつくられたが、復興はならなかった。しかし、補修を重ねつつ、現在も遺されている海津浜の石積からは、武骨ながらも家並みを守ろうとする村人たちの強い意志が感じられる。かつての栄華の礎であったこれらの石積は、船々が去った海津浜と琵琶湖を、いまでも静かに見守っている。

たびたび発生した水害から街を護った石積護岸

下段の石は風雨にさらされ角がとれている。

明治期に築かれた桟橋跡。大津まで蒸気船が航行した。