21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.15] 長崎・お船江跡

原型をとどめる藩政時代必須の港湾施設

 対馬の厳原港から2kmほどの河口部にあるこの遺構が、かつて朝鮮通信使や訳官使を運んできた対馬藩の御用船を格納する係留施設「お船屋」だ。いまでは「お船江」の愛称で呼ばれている港湾施設である。厳原町の中心街は、港をはさんでこの施設とは反対の北側に広がっている。かつての修船施設は船底を焼く作業にともない強い臭気を発散するため、居住地区とは隔絶したエリアに築造された。お船江の立地から見ても、この施設は修船機能をもっていたと推測される。

 寛文3年(1663)に造成されたと伝えられるお船江の遺構は、4基の突堤と5つの船渠からなるが、現在一つの船渠は埋立てられており確認できない。満潮時には大型の船も入渠できる水深を確保しているが、干潮時に海水が干上がるようになっており、船底部の補修を容易にできる構造になっている。

 4基の突堤にはそれぞれ高低差がつけられており、さらに船渠の幅にも差が見られる。船の規模によって修船作業がしやすい船渠を選び、入渠する場所を決めていたのだろう。

 突堤は、赤土を盛りその表面を漆喰で固め、石積みをほどこしたという記録がある。後背地は雑木林になっているが、突堤の上面にも松が植えられており、松の根が突堤の基礎部分をさらに強固なものとしているようだ。お船江の周辺には船大工や水夫たちの小屋、休憩所、倉庫などが建てられていたという記録がある。護岸の一部に10m四方ほどの掘込んだ上陸施設があり、海面に達する石積みの階段が残されている。陸上施設はここから陸地側の敷地に広がっていたと思われる。全体の広さから見ても、大規模な修船施設であったことがうかがえる。

 また河口部に造成されたため、河川からの土砂を海に排出する円弧状の導流堤が現存する。導流堤とお船江との関連は定かではないが、お船江を守るように川と平行する150mほどの石垣があり、当時は防波堤として機能していたと思われる。

 海辺に面した藩は、必須の港湾施設としてお船屋を設けていたが、ここ「お船江」ほど原型をとどめている例は全国的にも希少である。

船渠の幅は広い所で約10m。大型の木造船も収容できた。

4基の突堤には高低差がある。左右から効率的な作業が可能。

お船江を囲う石垣部分の石積みはほぼ原型を留める。