21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.14] 鹿児島・一丁台場/新波止

市民の憩いの場として再生した明治期の波止場

 鹿児島港は鹿児島市の水際線の大部分を占め、南北20kmにおよぶ広大な港湾だ。7港区のうち本港区は、市の中心街に隣接してフェリーの発着場、ボードウォーク、水族館などの施設が整備され、市民に最も親しまれているエリアである。この本港区には台形の埋立地にアプローチする橋のたもとに、一見無骨な石積みの護岸がある。この護岸こそ、この地から近代港の歴史が始まった事実をいまに伝える「一丁台場/新波止」の跡だ。薩摩藩政時代から明治にかけて多数の波止場や雁木が築造されたというが、現在目にすることができるのはこの本港区の石積み護岸だけである。

 海側が埋立てられ現在護岸となったこの部分は「く」の字型をしている。南に垂直に伸びる120〜130mほどの部分が「一丁台場」、その付け根から東側に約30度の角度をもつ石積みの護岸が「新波止」である。さらにこの別個の構造物を連結すべく築かれた防波堤部分3つを総称して「歴史的防波堤」と呼んでいる。

 最も古い新波止は記録によって多少異なるが、弘化3年(1846)ころに波除けとして築造された離岸防波堤に、安政元年(1854)に東側をさらに延長して構築された船形台場だ。0.3m×0.9mの大切石を階段状に積み上げた構造をしており、大砲17門を備える薩摩最大の砲台であった。まさに時代の潮流に日本がさらされていたころであり、この台場は大砲船の訓練拠点として利用されていた。

 一丁台場は明治5年(1872)、海岸の埋立と同時に築造された。これ以前にあった旧波止場をいったん撤去し、その資材を再利用する方式がとられた。新波止とほぼ同じ大きさの石材が使われ、堤全体がなめらかな丸みを帯びている。三次元的な曲面は、先端にいたるにしたがって微妙な変化を見せ、見事に仕上げられた突端の波切りに向けて美しく収束していく。新波止と20年ほどの時代を隔てているが、明らかに技術、意匠性の連続性が感じられる。

 新波止と一丁台場を連結する部分は、第一防波堤として明治38年(1905)に竣工した巻石防波堤だ。基本的には新波止の構造を踏襲し、美しい曲面を損なうことなく全体の景観に融合している。巻石のいたるところには、石工たちの名が誇らしげに刻まれている。

一丁台場先端の波切部分は城郭の意匠を思わせる。

台場本体から砲台跡を囲む防壁部。全体的に曲線の構成だ。

石の表面に施工に携った石工の名前や屋号が刻まれている。