21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.9] 広島・御手洗港

町の情熱が築いた瀬戸内海の港

 江戸時代半ばの「西廻航路」の開発と「沖乗り」の発達は、瀬戸内海の港の重要性を飛躍的に高めていく。各地の島々には港が整備され、北前船などの風待ち・潮待ちの適地として栄えた。広島県・大崎下島にある御手洗(みたらい)港は、そんな瀬戸内海を代表する港の一つだ。瀬戸内海のほぼ中心部という立地と地理条件に恵まれた天然の良港で、物資の集積地、交易の中継点として繁栄した。防波堤「千砂子波止(ちさごはと)」は、江戸期に建設された御手洗の象徴的な港湾施設。近年、台風で大きな被害を受けたが、修復され、現在も当時の面影を伝える。交通輸送の変革で衰退する運命にあったが、港をとりまく街並みをはじめ、江戸期の面影をいまも色濃く残しており、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)にも選定された。わが国が近世から近代へと発展していく過程で、それを支えてきた遺産であることは疑いなく、貴重な証人でもある。

 記録によると、御手洗は寛文6年(1666)に、町場の形成が進められたとある。港の正確な形成時期は確認が難しいが、御手洗港に風待ち・潮待ちする船があり、延宝〜貞享期(1673〜1688)にそれを目当てに島内の大長村から島民が移住してきたのが始まりといわれる。

 このころに地形を利用した港の原型があった。西廻航路の開発が寛文12年(1672)だから、これに合わせて港が整備されたものとみられる。

 港湾施設としての御手洗港を探ると、17世紀から18世紀段階では、船の停泊地は恵美須鼻西側の湾内にあった。恵美須神社の前が物揚場として記録されている。詳細な建設年代は不明だが、ここに荷揚用の施設である雁木(がんぎ=階段状の物揚場)が構築されていた。明和7年(1770)に幅9間の大雁木修復がされているので、少なくともそれ以前の建設ということになり、18世紀の正徳・享保期以降とみられる。

 安永8年(1779)ごろといわれる再修復以降、雁木の規模は幅が10間となった。当時としてはかなり大規模な施設であったといえる。また、広島藩による築出新地(長さ36.4m、幅8.1〜19.8m)の築造、その両側に置かれた船燥場(ふなたでば=船底についた海草や貝殻をはずし、乾燥させるために船底を焼く船台)なども整備され、当時の主要な施設は整っていた。そして「西国無双之港」としての地位を不動のものにする。ところが、19世紀に入ると競合する港もあり、その地位が危うい状況になってしまった。廻船誘致のための港湾整備が必要という議論が高まってくる。

 そこで、挽回策の切り札として地元が計画し たのが千砂子波止だった。ところが資金調達で苦労し、着工までには挫折を味わう。藩の殖産興業政策に便乗し完成したのは、最初に資金調達が却下された年から7年後の文政12年(1829)5月のことだった。

 波止の大きさは全長118m。沖に出している部分が91mある。石積みに熟練した職人を選りすぐって建設され、使われた石材は30万個を数える。幅の広い捨石の基底の上に石垣を積んで、内部に栗石を充填、その上に蓋石を貼っているのが基本的な構造だ。こうした構造は、現在の防波堤にも通じるものがある。

 波止の先端には、常夜高灯篭が建てられた。創建当初は木製だったが、暴風雨で消失したため、天保3年(1832)に石造に建替えられ、明治12年(1879)ごろまで灯し続けられる。また波止の鎮守として住吉神社が建立された。千砂子波止と住吉神社の完成後には、住吉神社から恵美須神社にかけての海岸線が埋立てられる。

 だが明治に入って近代化が進むと、西洋の機械・技術を輸入した汽船が海上交通の花形として登場。風待ち・潮待ちの避難港であった御手洗港の衰退は、決定的なものとなってしまった。起死回生の策として町の間で計画されたのは、やはり港の改修だった。

 その中で注目されるのは、明治40年(1907)の住吉波止(千砂子波止)小防波堤の建設がある。明治17年(1884)の大波で江戸期の大防波堤56mが決壊し、翌年に修復されていたが、大波が襲来する度に港内の船の安全が危惧されていた。そこで安全性を高めるために、大防波堤の先端部からカギ型に伸びる甲防波堤と、住吉神社の脇から大防波堤とほぼ平行して伸びる乙防波堤を建設しようという計画である。

 図面をはじめ当時の資料も保存されており、近代的な土木技術による防波堤であることがわかる。記録によると、工事の請負者は入札で決定され、建設費用は甲防波堤が621円、乙防波堤が721円であった。このための予算が、町民の有志55人の寄付によってまかなわれたという事実に、当時の町民が港湾の整備、ひいては町の復興にかけた熱意を見ることができる。

 御手洗港の港湾整備は大正、昭和時代に入ってからも続く。江戸時代から200年以上続く御手洗港の歴史は、海運の発達という時代の変化に対応しながら、自分たちの意志で常に改良・修築していく人々の歴史という見方もできる。

 しかし、それでも鉄道輸送など交通輸送体系の変化に抗することはできず、ついには物資の集散地としての役割を終えることになる。幸いにも輸送の変革が江戸時代から続く街並みをとどめる結果となった。平成6年(1994)には、国から重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)の指定を受けて、港を中心とした街並みの保存・再生が進んでいる。

写真撮影/西山芳一