21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.5] 神奈川・象の鼻防波堤 資料編

横浜開港

 安政5年(1858)の日米修好通商条約に従って、外国奉行を開港の候補地である神奈川の地に派遣し、現地調査をした。その結果、神奈川は台地と海にはさまれて将来の港としての機能には適当でないこと、しかも東海道に面した宿場町でもあり外国人との紛争や取り締まりに問題がある点などが指摘された。このため横浜がスポットライトを浴びることになる。地理的にも江戸から遠いこと、交通が不便で外国人を取り締まるのに好都合であることなどが理由である。そこで幕府は、アメリカ・イギリス公使の強い反対を押し切って、当初の候補地だった神奈川をやめて横浜で開港することを決定した。突堤のほか、運上所、住宅、外国人居留地、遊郭などが整備される。

慶応2年(1866)以前

明治1年(1868)

明治3年(1870)

明治11〜14年
(1878〜1881)

明治34年(1901)

原型

 象の鼻防波堤の原型となる突堤は、横浜開港前年にあたる安政5年(1858)、武州榛沢郡高嶋村(現在の埼玉県深谷市)の名主である笹井万太郎が「横浜村波止場築立」を16,080両で落札して建設した。横浜村の中央に設置された運上所の北側海面に2本の突堤を建設し、最初の波止場を完成させている。

 その規模は「海岸之築出し候間数長さ六拾間、幅拾間の石垣にて、水上壱丈三尺、此上へ芝土手高さ五尺」。すなわち長さ109m、幅18m、天端高さ4mの石垣づくりで上部に高さ1.5mの芝を張った土手になっていた。この2本の突堤が横浜港の最初の港湾施設といえる。

 着工は安政6年(1859)2月。開港が6月2日だから約4カ月の突貫工事であった。

増築

 最初に構築された突堤は、東西2つからなり東の突堤が外国貿易、西の突堤が国内貿易の貨物の取り扱いをした。東の突堤はイギリス波止場、西は税関波止場と呼ばれたが、次に述べるフランス波止場に対して全体を西波止場と呼ぶこともあった。  文久年間(1860〜63)には現在のホテル・ニューグランドの前あたり(山下公園近く)にフランス波止場が建設された。西波止場を原型にした2本の突堤からなる。一般供用は元治元年(1864)。突堤の長さは約80m、突堤間は約75mであった。

 慶応2年(1866)にはイギリス波止場の延長がなされた。現在の大桟橋の根元から西に東西の突堤を囲うように湾曲してのびていることから象の鼻という名前が生まれたものとみられる。設計は石づくりの運上所とともにウイットフィールド・アンド・ドーソンが手がけた。

 横浜港の増築はその後、国産波止場の増築、さらに大桟橋をはじめとしたパーマーの計画などへとつながっていく。