21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.3] 宮城・野蒜築港跡

悲運の港は近代浚渫技術の出発点

 観光地・松島の東に位置する宮城県鳴瀬川河口の野蒜(のびる)地区に、東北開発の夢を担った近代港湾が計画されるのは、明治9年(1876)のことである。構想は港の構築に始まるが、当時計画されていた万世大路(福島〜米沢間)、関山新道(仙台〜山形間)と接続し、舟運で利用されていた北上・阿武隈両川とも運河で結ぶ壮大なスケールへと発展していった。東北全体を後背地に、明治政府直轄で進められた国家プロジェクトであった。だが開港してわずか2年後の明治17年(1884)に台風のため突堤が消失、復興を放棄されるという運命をたどり、“幻の港”といわれる。
 計画したのは、オランダから招聘したお雇い外国人技術者のファン・ドールン。安積疏水(福島県)の計画者としても知られる。わが国初の洋式近代港湾として4年の歳月をかけて開港する野蒜港の陰には、今日の港湾整備でもきわめて重要な技術「浚渫」があった。

 ドールンの案は港を内外の2港で構成するものだった。鳴瀬川河口に設けられた内港は、面積3ha。河口にある暗礁を避けて、港口をやや西に配置して新たに開削し、2本の突堤(導流堤)を構築する。そして新鳴瀬川を東に開削して分岐点に洗堰を設置、新旧の鳴瀬川の間にある35haの土地は、港湾用市街地として造成する計画であった。一方、外港は長さ55mの島堤に守られた大型外航船の停泊地である。第二期工事として計画されていたが結局、日の目を見ずに終わってしまう。さらに北上川と結ぶ北上運河も、既存の貞山運河を野蒜港まで延長する東名運河も付帯工事として含む壮大なプロジェクトであった。

 着工したのは明治11年(1878)6月のことである。

 野蒜港で注目すべき技術は、現代の港湾工事に欠かせない浚渫に、わが国の港湾で初めて蒸気式浚渫機(船)による機械化施工技術が導入されたことである。オランダから最新の蒸気式浚渫機2台と手動式浚渫機を輸入し、北上運河、新鳴瀬川、旧鳴瀬川河口の船溜り工事などに導入した。これに江戸時代から使われていた鋤簾引(じょれんびき)が併用される。すなわち西洋の最先端技術とわが国の伝統的な技術を組み合わせて建設されたのが野蒜港ということになる。浚渫土は計約64万m3にも達した。当時としては相当大規模な工事だった。

 浚渫技術で造られた新鳴瀬川の長さは1,090m、水深0.9〜2.4m、幅36〜54m、船溜りは広さ東西151m、南北241m、水深4.2mだった。また新鳴瀬川と旧鳴瀬川の分岐点に設けられた洗堰(越流堤)は長さ193m、上幅4.5m、敷幅18mの規模である。

 浚渫工事とは違うが、野蒜港で注目される技術に、突堤築造に使われた粗朶沈床(そだちんしょう)工法がある。東突堤(長さ315m)と西突堤(同269m)とからなり、両突堤の間は90mあまりの間隔があった。

 さらに北上川の石井閘門や橋台には煉瓦とセメントが採用された。いずれも当時としては最新の技術で、港湾施設に先駆的に採用された技術である。

 難産の末に港がようやく完成したのは明治15年(1882)10月。これにより、まったくの寒村だった野蒜は一躍近代港湾として歴史の表舞台に登場する。しかしそれもつかの間、2年後の明治17年(1884)9月に、台風で東突堤の3分の1を消失する悲運が襲う。オランダ人技術者ムルデルの調査報告は、新たに数百万円もの工費を投入し、1,800mの外港防波堤を築いて内港の港口を守らなければならないという厳しいものだった。

 決断を迫られた政府は明治18年(1885)、この報告を受けてついに復興を断念、野蒜港は幻の港として歴史の彼方に消え去ることになる。それまでに投じられた86万円あまりの工費も結局は無駄になってしまった。

 しかし築港工事に導入された技術は、機械式浚渫をはじめ当時最先端のもので、現代の港湾技術を切り拓いたという意味で特筆されるべきである。

突堤の断面図
(出典:「日本築港史」)

写真撮影/西山芳一