21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.1] 北海道・稚内港北防波堤ドーム 資料編

土谷実(1904〜1997)

 昭和3年(1928)に北海道帝国大学土木工学科の第一期生として卒業。廣井勇の最初の弟子で、当時、北海道の港湾建設を指導・統括していた伊藤長右衛門(北海道庁港湾課長)のすすめで同年、稚内築港事務所に赴任する。
 北防波堤ドームの設計を手がけるのは3年後の昭和6年(1931)で、まだ26歳の若さだった。設計を指示した所長の平尾俊雄は大正元年(1912)に東京帝国大学を卒業、昭和3年(1928)に網走築港事務所長から稚内築港事務所長を兼務して赴任してきた。土谷が設計を担当した背景には、土谷が大学時代に当時まだ研究途上だったアーチコンクリート橋の設計を学んでいたことがある。土谷はわずか2カ月で、強度計算から図面まですべての設計を終えた。
 ドーム屋根をという構想は平尾が描いたものだが、それを具体的な形にしたのは土谷である。土谷がデザインモチーフにしたのは、北海道帝国大学で教鞭をとっていた北海道庁の福岡五一建築課長の講義ノートにあったヨーロッパ建築のプリントだった。そこにはギリシア・ローマ時代の神殿や劇場、教会などが描かれており、これらのデザインを参考にしたものである。
 平尾から構想を描いたスケッチ程度のものが手渡され、それを土谷が設計としてまとめあげていった。今日では土谷の名前が強調されがちだが、土谷自身が後年、「平尾・土谷の合作」と述懐している。
 当初、柱と柱の間の桁は水平で計画されたが、アーチに変更された。これは屋根がカーブになっているため、構造物全体とのバランスを考えたものだ。景観的にもアーチの方が優れ、土谷の豊かなデザイン力をみることができる。

固定ラーメン

 柱と梁を防波堤胸(海)壁と地杭で支持する。基礎は柱を支点に逆アーチ基礎として連続させ、下部を地杭で支持する。柱と函塊上部を梁で結んで補強し、安全率をもたせた。杭は当時としては珍しいコンクリート杭が採用されている。

施工

 施工で注目されるのは、当時は貴重なスチームハンマーの採用である。スチームハンマーは、昭和3年(1928)ごろに留萌の石炭桟橋の基礎杭(木杭)に採用されたというが、稚内では木製櫓にスチームハンマーを取り付けて、700本ものコンクリート杭を打った。大規模工事で本格的に採用されたという意味では、稚内が初めてとみられる。
 もう一つ施工で注目されるのは、移動式型枠の開発である。これは工事現場で指揮をとった道庁土木部の伊藤健治郎の努力で実現したものである。木製で型どり、支保工を兼ねた移動式架台に組み立てられた。幅は約12m。2基を製作し、移動させながらコンクリートを打設していき工事を効率化した。

再生

 過酷な自然条件に耐えてきたドームも昭和40年代に入るとコンクリートの老朽化が進んでいく。昭和45年(1970)には部分的に補修して維持したが、昭和50年代にはコンクリート表面の剥離や落下が発生し、危険性が指摘された。
 そこでドームの修復が実施される。昭和53年(1978)から原型を再現した新ドームの建設が始まり、3年後に完成した。これにともないドームの長さは3m伸び427mとなる。現在は稚内市マリンタウンプロジェクトのシンボルとして人々が集うスポットに変貌している。

コンクリート打設工事

スチームハンマー打ち込み

ドーム構造図(正面)

防波堤断面図