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山田 雄司(やまだ・ゆうじ)氏
 1977(昭和52)年鹿児島大学卒、臨海土木(現りんかい日産建設)入社。1992(平成4)年長崎営業所長、1995(平成7)年九州支店営業課長、2000(平成12)年同営業部長、2011(平成23)年同支店長、2012(平成24)年執行役員、2015(平成27)年常務執行役員。鹿児島県出身、63歳。
現場での経験とつながりが財産
 鹿児島大学で農業土木を学び、1977(昭和52)年に臨海土木(現りんかい日産建設)に入社した。「同級生の多くは就職先に公務員を選びました。ですが私はとにかく県外に出たかったこともあり、民間企業への就職を決めました」。最初の配属は海外工務部だったが、2カ月ほどでふ頭用地造成を行っていた秋田県の現場へ異動を命じられた。初めて体験する土木工事の最前線。大学を卒業したばかりの新人だったこともあり、「とにかくベテラン作業員によく怒られました。ある日、(番線を結ぶための)〝しの〟を持ってこいと言われた時に何のことかさっぱり分からず、どやされたことを今でもよく覚えています」と若かりし日を懐かしむ。
 秋田県での工事が終わった後、入社半年で福岡支店に転勤。技術者として本格的に工事に携わる生活が始まった。長崎漁港修築工事の現場に入ったのは1979(昭和54)年6月。それから3年間でケーソンの製作・据付や桟橋上部工などに携わり、海洋土木工事のいろはをみっちりと学んだ。
 「長崎の現場は同業他社や地元企業に同世代の社員が多く、互いに切磋琢磨しながら仕事と向き合いました。現在の自分があるのはその時の経験があればこそ。当時の仲間とは今でも仲良くしています」。
 決して大規模な現場ではなかったが、「ケーソンをいくつも造ったり、上部工を構築して防舷材を取り付けたりなど、さまざまな仕事を担当しました。真冬の夜間作業はとても寒く大変でした」と話す。やり甲斐と苦労を感じながら、技術者として成長していることが実感できた3年間。「建設は経験工学ともいわれ、技術者として成長するには現場での経験値が不可欠です。今振り返ってみると技術者として現場に出て多くの方々と接したことで、より広い視野が持てるようになりました」と回顧する。また「何もなかった入り江に港ができ、その周りに街ができあがっていく。長い年月をかけて変わっていく街の姿を目にすると、建設業という仕事の重要性や社会インフラの大切さが実感できます」とも語る。
 長崎漁港の後も、九州各地でさまざまな工事に従事。出身地の鹿児島県で、鹿児島港の防波堤工事を担当した時には、毎日実家から現場に通っていたそうだ。1991(平成3)年3月まで技術者として現場の最前線に立ち、同年4月から営業所長代理として長崎に。1995(平成7)年には営業課長として九州支店に転勤した。
 現在、支店長として常に心掛けているのは「現場で何が起こっているのか自分の目で見て確認する」こと。情報を得るための技術は発達したが「コミュニケーションを深めるには実際に足を運んで話をするべきだ」と思っている。建設会社、そして技術者の仕事は自らの足跡が後々まで残る。「現場に出ていた十数年間はがむしゃらに仕事をしていました。それを今の時代に当てはめることは難しいかもしれませんが、若い世代にやり甲斐を感じてもらうにはどうすればいいのか。そのことが常に心の中にあります」と決意を新たにする。
 支店の運営はもちろん、次の世代により良い職場を引き継ぐことにも大きな責任を感じ、腐心する日々。「土木技術者という道を選んだ決断は間違いなかった」と話しながら、「昔造った港などがどうなっているのか今でも気になって、時間を見つけて見に行っています」と目を細める。
3年間工事に携わった長崎漁港

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