title
title
title
Back Number

長谷川 秀一(はせがわ・しゅういち)氏
 1979(昭和54)年佐伯建設工業株式会社(現・あおみ建設株式会社)入社。西日本地区を中心に港湾工事に従事。2008(平成20)年4月沖縄支店部長、2012(平成24)年4月九州支店営業部長、2013(平成25)年4月沖縄支店長、2016(平成28)年6月執行役員就任。鹿児島県出身。55歳。
難工事で味わった仕事の充実感
 鹿児島県霧島市出身で1979(昭和54)年、佐伯建設工業(現あおみ建設)に入社した。若い時には「一つの現場に最初から最後まで従事することは少なかった」けれども、「工事が完成した後の充実感は何物にも代え難かった」といい、「全国各地に赴任できることも当時の私には刺激的だった」と話す。
 西日本を中心にさまざまな工事に携わり、沖縄県では宮古島にも3年間赴任。防波堤築造などの作業で陣頭指揮を執っていた1993(平成5)年に、長崎県の雲仙普賢岳で発生した噴火災害の対策工事を担当する異動辞令を受けた。「建設業が災害現場に乗り込み仕事をするイメージは持っていた」と強い決意を持って臨んだ工事。噴火に伴う火砕流と土石流が押し寄せた水無川河口や海岸線にたい積した土砂を浚渫・揚土した後、直立消波護岸を築造する仕事に取り組んだ。
 「着工した93年5月はまだ普賢岳の火山活動は収束していませんでした。火砕流が発生すると昼間でも辺りが真っ暗になり、泥のような雨が降り出します。移動中雨になって前が見えなくなり、何度も途中で止まってフロントガラスを拭きながら現場に向かいました」。
 危険と隣り合わせの現場に立つため防災無線を常に持ち歩き、噴火警報に注意し避難対策を考えながら作業に当たった。着工から3カ月が経った93年7月には水無川流域で大規模な火砕流と土石流が発生。「被災地は本当に大きな被害を受け、現場周辺で数トンはあろうかという海水に浸かった岩石が、もうもうと水蒸気を上げる光景も目にしました。噴火が起こるたびに設計変更が行われ、作業内容も見直しを余儀なくされた」といい、「厳しい状況で本当に工事が進められるのか、度々、不安が頭をよぎりました」と当時を振り返る。
 度重なる火砕流と土石流の激しさは想像を超え、現場の外周部に設置した延長3キロにも達した汚濁防止膜が土砂に埋まったことも。工事は計画通りに進まないことが多く「変更作業が遅れると製作中の直立消波ブロックの数も確定できないため、幾晩も徹夜したのを覚えています。今はCADがありますが、当時の図面は手書き。労力と時間を費やして仕事をしましたが、被災地が少しずつ復旧していく姿を見るのは私にとって大きなやりがいでした」。
 近隣の現場では噴火活動に備えて、当時は珍しかった『重機の無人化施工』も行われていた。操作室でモニターを見ながらブルドーザーやバックホウ、ダンプトラックを操作する。その光景を目にした時、技術革新の重要性を痛切に感じたそうだ。普賢岳の災害対策に従事したのは約1年半。工事が完了した時は「時間の濃密さが通常の2倍にも3倍にも思えました。確かに苦労はしましたが仕事はやりがいがあり、心に残った現場になりました」。
 「建設業の仕事が好きで18歳で会社に入り、さまざまな工事に携わってきました。海洋土木工事は防波堤も岸壁も陸上から見えるのは全体のごくわずかです。ただ海面下には巨大な構造物があり、港を守っています。若い人にはぜひ、土木の仕事や役割をよく見て理解してほしいと願っています」。
水無川河口部で実施した護岸築造の様子

Back Number