title
title
title
Back Number

宮川 昌哉 氏
 1974年に大都工業(現みらい建設工業)入社。東北6県の建設現場を担当し、1991年に東北支店仙台営業所長、1997年東北支店営業第一課長、1999年日東大都工業東北支店仙台営業所長、2002年みらい建設工業東北支店土木部長代理、2005年から現職。58歳。秋田県出身。
どんな時でも、ベストを尽くせ
 建設工事では、計画された目的物を円滑に造るために、仮設施設を設けることがある。職人が作業するために組む足場や作業構台などは、そうした仮設施設に当たり、最終目的物が完成すれば通常解体される。ただ、こうした仮設施設自体の建設が、大変なケースもある。釜石港平田地区作業基地積出施設工事その2は、「今振り返ると、よく無事にやり遂げた」と思うほど、過酷な仮設施設築造工事だった。
 釜石港の湾口防波堤工事は昭和53年に着手された。3年後には湾内にある平田地区に石材積出基地が整備され、防波堤深部の捨石の投入が開始された。釜石港平田地区作業基地積出施設工事その2は、その捨石の積出基地をもう一つ仮設施設として建設しようというものだった。「工事は岸壁にボックスカルバートを現場打ちし、ダンプが入れる道路を整備するというものでした。技術的にはこれと言って難しくはありませんが、とにかく短工期だった。わずか2カ月という工期でした」。
 当時、入社後約10年が経ち、現場代理人としてすでに現場を仕切っていた。技術や現場のことを少しずつ覚え、体力もあった。工事をやりきる自信はあったが、周囲の人たちからは「2カ月では無理だよ」と言われた。それで、綿密な施工計画を立て、時間を惜しむように仕事をした。
 「現場には私を含め4人の社員がいました。工期が短いので、支店の課長が所長格で来てくれて、地元住民との折衝を担当してくれました。現場は私と2人の後輩の3人が担当。このうちのひとりは急きょ、他の現場から寄越されたのですが、夜に釜石駅に到着し、そのまま現場に連れて行き、測量させたのを覚えています。それで、その後輩はとんでもない現場にきたと思ったそうです」。
 とにかく様々な作業を並行して進めた。型枠の検査を受けながら、生コンを打設する。あれもこれも同時に動かせるものはすべて並行して動かす。「時間というものは、ある程度まではお金で買えるというのが分かりました」。
 外が明るいうちは現場で作業し、夜に各種資料を作成する。連日その繰り返しで、宿舎に帰るのはいつも夜中だった。「毎日夜が遅いので、宿舎にしていた旅館から追い出されました。それで困っていると、釜石営業所の所長のお姉さんの家に空き部屋があると言われ、そこに急きょお世話になり、助けてもらいました」。
 工事は工期内に無事終了した。「後になってよく考えてみると、最初に決めた作業工程をただ守っただけでした。こんな工程は無理だと思いながら作成した工程表を可能な限り忠実に実施した。結果的にそれが工期内にできた最大の要因でした」。
 現場から離れて約20年が経つ。自らの経験から若い現場技術者には「竣工検査では胸を張るようにしろ」と声をかける。しっかりと管理していれば、どんな検査や審査があろうとも怖くない。そのぐらい「どんな時でも、ベストを尽くせ」という。さらに、発注者の方に「飯を一緒に食べようと声をかけられるようになれ」とも。「仕事上は甲乙関係でも、現場を離れれば同じ技術者。良い意味での信頼関係が作れるのかどうかが大切なんです」。
 
平田地区作業基地積出施設工事その2の現場。 昭和63年ころの宮川氏(右)。
 

Back Number