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株式会社 吉田組船舶 第50吉田号 船長
藤原 洋 氏
 兵庫県姫路市沖にある家島で生まれ、育った。吉田組の創業者(吉田芳松氏)は同郷出身者で、「父親も吉田組の関連会社に勤めていたため、お前も船に乗るかという感じで入社した」。1969(昭和44年)1月、17歳の時だった。
 入社後まもなく、ガット船の船員となり、その後プッシャーボートなどにも乗船し、20歳になったのと同時に船長の免許を取得。すぐに曳船の船長に抜擢された。
 「会社からいきなり船長として現場に行ってくれと言われた時は、若かったこともあり戸惑いもあった」。それから約35年間、曳船の船長を務めた。この間、杭打ち船やミキサー船などいろんな船を曳いてきたが、その約8割は起重機船が占めた。
 「起重機船と一緒に全国各地の港を回った。起重機船は自走できないので、曳船や揚錨船などの船団で行動する。現場に行けば同じ吉田組の社員として起重機船に乗り込んでワイヤリングなどの作業も手伝った」。
 5年前に国内を代表する大型起重機船「第50吉田号」の船長に就任。起重機船の船員からではなく、曳船の船長からというのは異例だったが、周囲からは「藤原船長しかいない」と推された。
 「これまでの経験から俺しかいないのかな、と。起重機船は風に弱い。風に対しては今も細心の注意を払っている。天気図を読み、危険だと思えば早めに(作業中止を)判断する。これまでやれたのは大きな事故がなかったからで、安全にはいつも気を付けている」。
 関西国際空港I・Ⅱ期や本州四国連絡橋など数え切れないぐらい思い出に残る現場があるが、第50吉田号の船長になってから携わった羽田空港D滑走路建設工事は、その中でも最も施工条件の厳しい現場だった。
 「延べ8カ月弱、羽田の現場にいた。途中、違う現場に行っては羽田に戻って作業するという状況だった」。羽田の現場は高さ制限があるため、A・B滑走路沖の間の〝Vゾーン〟と呼ばれる場所に昼間停泊し、夜になると作業するという厳しい作業環境だった。さらに、作業船を苦しめたのが、昼間の船の位置確認だった。「Vゾーンから出ると、飛行機が離発着できなくなるため、GPS で絶えず位置を確認しなくてはならず、気が休まることがなかった」。
 国内の大型プロジェクトの減少とともに、起重機船の隻数も減少傾向にある。起重機船を熟知した船員の育成がこれからの課題となっている。「現場に行けば、船員は何カ月も船内で同じ釜の飯を食べる。それだけに船員同士のコミュニケーションが重要になる。若い船員には、チームワークの大切さを伝えていきたい。良い仕事をするのは当たり前のことで、元請企業の人たちから吉田組の船とまた一緒に仕事をしたいと思ってもらえるように、頑張っていきたい」。
第50吉田号(3,700t吊りジブ俯仰式起重機船)
【船体部】 長さ110m、幅50m、深さ8.5m
【起重機部】 主巻上定格荷重3,700t(925t×4フック)、
主巻張出距離47.15〜53.3m(3,700t負荷時)、
全高 水面下30m(最低)、132m(最高)
 吊り上げ能力が 3,500トンを超える大型起重機船は現在、国内に4隻のみ。第50吉田号は28年前に造船され、これまで数々の現場で活躍してきた。ジブ高さを水面から30mまで低くでき、機動力が高いのが特長だ。
第50吉田号が明石海峡大橋の上部工を架設した。

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