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 2021年12月6日に迎える日本埋立浚渫協会設立60周年を記念し、この四半世紀ほどの間に会員企業が手掛けた時代を画する主要プロジェクトにスポットを当て、関係者の座談会で振り返る企画。5回目となる今回は、大津波によって港湾施設にも甚大な被害をもたらした2011年3月11日の東日本大震災への対応を取り上げます。
釜石港湾口防波堤の復旧工事
 2011年3月11日14時46分、宮城県沖の太平洋を震源とするマグニチュード(M)9.0の大地震(2011年東北地方太平洋沖地震)が発生した。M9.0は日本周辺では観測史上最大、世界でも観測史上4番目の規模。震源域は岩手県沖から茨城県沖まで南北約500kmにも及んだ。東北から北関東にかけての沿岸地域は震度5弱から6強の揺れに襲われたが、揺れ以上に深刻な被害をもたらしたのが大津波だった。津波の最大波高は大船渡港(岩手県)で9.5m、久慈港(同)で8.6m、相馬港(福島県)で8.9mを観測。他の港湾にも7mを超す大津波が押し寄せ、壊滅的な被害が発生した。
 道路や鉄道など陸上の交通網が寸断される中、一刻も早い人命救助や物資輸送のため、甚大な被害を受けた港湾施設の復旧が急がれた。
 地震発生から約1時間後の16時、日本埋立浚渫協会は「東北関東大震災港湾関係団体災害対策本部」を立ち上げた。日本海上起重技術協会、日本潜水協会、海洋調査会、港湾関係建設会社と合同で組織したもので、国土交通省の要請を受けて資機材や作業船の手配状況を把握するなど対応に乗りだした。
 港湾関連団体による合同の対策本部の設置は過去にあまり例がない。それだけ被害が甚大かつ広範囲に及び、復旧をより迅速・強力に支援する必要があったことを示している。協会の東北支部と関東支部も東北地方整備局などの要請と指示に基づいて活動を開始した。
 津波警報・注意報が解除された翌日の3月14日、緊急輸送路の確保を目的にした航路の啓開作業が始まった。各被災港湾には全国各地から起重機船やガット船、ガットバージ船、台船、曳船、潜水士船などが続々と投入された。国土交通省から災害対応方針が示されたのを受け、16日から各社は各港の啓開作業を本格化。茨城港や釜石港を皮切りに各港の岸壁の一部が相次ぎ使用可能になった。
 啓開作業では、浮遊物や水中障害物の撤去、潜水調査、港内の水深測量などが行われた。津波の引き波によって港内に沈没したコンテナや車を引き上げる際には、当時の最新技術だったナローマルチビーム測深機やGPSなどが使われ、作業の促進に大きく貢献した。作業開始当初は現地での活動や現地入りに必要な燃料の確保が大きな課題になったが、4月上旬には現地で燃料を供給できる体制が整い、啓開作業ははかどった。
 啓開作業と並行し、被害状況調査や緊急復旧・応急復旧工事に向けた活動も始まった。3月27日に仙台塩釜港(仙台港区)で被害状況調査として岸壁エプロン部の空洞化調査や潜水士による岸壁の構造変状調査が行われたのをはじめ、他の港でも順次、被害調査が進められた。
 6月には政府の東日本大震災復興構想会議が「復興への提言~悲惨の中の希望~」、政府の中央防災会議が設置した「東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会」が津波防災対策の基本的な考え方をそれぞれ発表。続いて7月には、国土交通省の交通政策審議会港湾分科会防災部会が「港湾における総合的な津波対策のあり方(中間とりまとめ)」を発表した。
 同部会は、中央防災会議の提言を踏まえ、「津波の規模や発生頻度に応じて防護の目標を明確化して対策を進める必要がある」と指摘し、発生頻度の異なる二つのレベルの津波を想定した対策を提案。さらに、最大クラスの津波に対して損傷はしても壊滅的な倒壊はしない「粘り強い構造」による津波防災施設が整備されるよう、技術的な検討も促した。
 一方、国土交通省は4月から5月にかけて、被災港湾ごとに地元関係者らで構成する「復旧・復興協議会」を設置。産業復興を支える物流機能の在り方や、産業活動・まちづくりと連動した津波防災の在り方を検討し、8月にはそれぞれの港湾で施設の復旧・復興方針やスケジュールなどを盛り込んだ「産業・物流復興プラン」が作成された。
 これと並行して東北地方整備局は、各港湾の役割や港湾相互の連携、共通課題について検討する「東北港湾復旧・復興基本方針検討委員会」を5月に設置。8月には、岸壁などの港湾機能をおおむね2年以内に本格復旧する方針とスケジュールを明らかにした。
 防波堤が壊滅的な被害を受けた八戸港や釜石港、大船渡港、相馬港、岸壁に甚大な被害が発生した仙台塩釜港や茨城港などをはじめ各被災港湾では、これらの提言やプランに沿って復旧・復興工事が本格的に進められた。官民挙げての懸命の取り組みによって、2012年までに茨城港常陸那珂港区では外貿コンテナや内航定期RORO船航路が再開、仙台塩釜港でも震災後初めて北米航路のコンテナ船が寄港するなど港湾機能は急速に回復。震災1年後の2012年3月時点では86%の岸壁が利用可能になった。
 東日本大震災は、大規模災害時の港湾インフラの重要性を改めて浮き彫りにしたとも言える。各社が総力を結集した地震発生直後の航路啓開やその後の復旧工事は、次の大規模災害に備えるための貴重な経験にもなっている。
 2021年3月11日、東日本大震災は発生から10年の節目を迎える。
仙台塩釜港仙台港区の岸壁復旧工事 倒壊したケーソンを砕岩棒で砕いて撤去
地震発生直後からの協会の取り組み
津田 修一
日本港湾空港建設協会連合会 専務理事

舘山 大樹
五洋建設株式会社 東北支店 八戸工事事務所 総括所長

佐藤 雄一
東洋建設株式会社 東北支店 土木部 部長兼工事課長

福屋 昭治
あおみ建設株式会社 東北支店 宮城統括事務所長

岩本 和之
東亜建設工業株式会社 東北支店 土木部 部長兼土木課長

野木 秀高(司会)
若築建設株式会社 常務執行役員 東北支店長

全国各地から人と作業船が集結
迅速だった初動対応
野木東日本大震災は2011年3月11日14時46分に発生しました。私は盛岡にいてすぐ仙台に向かいましたが、停電で信号がほとんど止まっており、約200kmの距離を10時間かかったのを覚えています。
津田当時、東北地方整備局で港湾空港部長をしていました。当日は朝から八戸の工事事務所で会議をし、午後に仙台に戻って副局長と打ち合わせをしている時に地震がありました。職員の安否確認などをしているうち夕方になり、庁舎の電気が非常電源に変わり、災害対策室のある二日町庁舎に移動して対策の検討に入りました。
福屋当時は九州支店勤務で、大分県の海沿いを走る国道の6車線拡幅工事に従事していました。東北で地震発生という電話が入ったものの、いまひとつ実感が湧きませんでしたが、大分県沿岸にも津波警報が発令され、作業を中断しました。その後はテレビニュースにくぎ付けになりました。
舘山東北支店でテレビ会議をしていたところ、それまで聞いたことのなかった携帯電話の緊急地震速報が鳴り、みんなで顔を見合わせました。とりあえず全員が外に逃げ、歩いて自宅へ戻りました。
岩本防波堤の工事で岩手県久慈市に居ました。地震が起きる30分前まで沖の防波堤で最後の点検を行っていたのです。事務所へ戻って一服している時に地震が起きました。交通船の船長にすぐ連絡すると、「船が大事なので沖に出る」という話でした。私は山の上にあった健康ランドへ車で逃げ、そこで一夜を明かしました。翌日、自衛隊が来ておにぎりと味噌汁を作ってくれました。前日昼から何も食べていなかったので、非常にありがたかったのを覚えています。
佐藤福島で高速道路の工事に携わっていました。地震が起きたのは人間ドックへ行った帰り道。運転中の車が左右に揺れ、ラジオからは大津波警報が鳴り響き、電柱が柳のように揺れていました。水道管が破裂したのか、道路から噴水のように水が吹き上がっていました。道路が崩れて現場には戻れず、急きょ家に帰ることにしました。家族は無事でしたが家の中はめちゃくちゃで、子どもが通っていた学校の体育館で一夜を過ごしました。体育館の寒さと満天の星空が強く印象に残っています。
野木各港湾の被害はどのような状況でしたか。
津田東北地方整備局の管内だと、青森県の八戸港から福島県の小名浜港まで10カ所の港湾施設が大きな被害に見舞われました。仙台より北は津波、仙台より南は地震の揺れによる被害が多かったと思います。八戸港は、八太郎地区の北防波堤3,500mのうち1,400mが被害を受け、倒壊したケーソンの総数は102函に及びました。久慈港は湾口防波堤のケーソンが破損・傾斜し、半崎地区の波除堤の上部コンクリートすべてとブロックの大半が流失しました。宮古港は竜神崎地区防波堤のケーソン11函、藤原地区防波堤のケーソン2函、出崎地区防波堤のケーソン18函に転倒などの被害が出ました。釜石港は湾口防波堤の約7割が倒壊しました。大船渡港は湾口防波堤のすべてが倒壊し、灯台も流失しました。仙台塩釜港の仙台港区では7.2mの津波でコンテナ岸壁が壊れ、荷役機械などが流失しました。塩釜港区でも津波によってカキの養殖施設や船舶、民家などが航路内に大量に流出し、堆積しました。相馬港は沖防波堤の約9割、ケーソン159函が転倒・傾斜し、岸壁や護岸にも破損や前傾が生じました。小名浜港はほぼ全ての岸壁が倒壊・沈下しました。
野木港の啓開作業はどのように行われたのでしょうか。
津田当日夜、東北地方整備局の対策本部で災害協定に基づく初動対応として日本埋立浚渫協会に協力を依頼し、翌12日には対策本部に会員企業の方が集まってくれました。動ける船が4船団あることを確認した上で、どこの港に入るか、どこの港を優先して啓開するかを協議し、宮古港、釜石港、仙台港に入ってもらうことにしました。宮古港と仙台港は背後地の浸水がひどく、釜石港は東北道がつながる道路に高架橋が多くて復旧が遅れそうだったためです。緊急物資を海上輸送する船が一刻も早く入港できるよう、この3港を4船団で啓開していただくようお願いしました。14日から現地で作業が始まり、15日に釜石港、17日に宮古港、18日には仙台港に物資を積んだ国土交通省の保有船が入港できました。21日には油槽所のある塩釜港の航路が啓開されてタンカーが入港でき、地域の燃料不足が解消できました。わずか10日間で長い航路を啓開できたのは、協会会員各社が厳しい状況の中で迅速な作業をしてくれたおかけだと思います。
野木タンカーの入港は明るいニュースでした。啓開作業で記憶に残っていることはありますか。
佐藤仙台にある東北支店から石巻港、女川港へ毎日通い、応援に来た協力会社の作業船に乗り込んで啓開作業に当たりました。石巻港では、隣接する製紙工場で保管されていた木材が津波で港内に散乱し、潮の干満により移動するので難儀しました。ある職員が木材をシルトプロテクター(汚濁防止膜)で囲ってはどうかと提案しました。木材が陸側に寄る満潮を狙ってシルプロを設置するというアイデアで、これによって木材を効率良く回収できました。
岩本仙台塩釜港塩釜港区、大船渡港、久慈港の啓開作業に当たりました。塩釜も大船渡もカキや昆布、ワカメ、ノリの養殖施設が港内に浮遊し、沈没した漁船やプレジャーボート、観光船などにも苦労しました。各石油会社の油槽所がある塩釜港では、深刻な燃料不足を解消するため油輸送船の早期着岸を最優先として17日に作業を開始しました。浮遊物を大型起重機船で撤去した後、ナローマルチビーム測深機とサイドスキャンソナーを併用し、航路・泊地部の事前測量を行いました。これを解析して異常点の位置を割り出し、海中の支障物を撤去して水深を確保するという手順です。啓開作業と並行し航路標識も復旧し、予定通り21日には油輸送船を入港させることができました。離島地域への航路啓開も行い、3月26日には離島への支援物資輸送を開始できました。大船渡港は倒壊した湾口防波堤から湾奥の公共岸壁までの約5kmの航路部に養殖施設が浮遊していました。岸壁前面には車が10台以上と50t吊りのトラッククレーンが沈んでいたため、潜水調査を繰り返し行い、起重機船の設備で可能な施工方法を検討して撤去しました。
舘山仙台港の啓開作業を担当しました。200~360t吊り起重機船4隻を使い、津波で流出したコンテナや自動車の揚収作業を行いました。事前にナローマルチビーム深浅測量で異常点座標とその種類を確認し、揚収作業を行った点は500カ所以上に上ります。揚収物が自動車の場合、被災者が乗っている可能性があり、潜水士による目視確認が必要になります。油の流出で海中は視界が悪く異臭も漂い、潜水器具も汚れるなど厳しい状況でした。余震が頻繁に発生するため、ポータブルラジオで常時情報収集に努めました。
福屋私は九州にいたので、啓開作業に直接は携わっていませんが、当社は地震発生時、仙台港の雷神埠頭で岸壁増深工事を担当していました。矢板式岸壁の控杭施工中に地震が発生し、津波により杭打ち機の水没や資機材の流失・散乱などの被害に見舞われました。支援物資の輸送船を入港させるために雷神埠頭の岸壁を開放する必要があり、他県から手配した大型のクローラクレーンを使って自力移動できなくなった杭打機を解体し、散乱した資材や流出物を片付けて何とか3月15日の入港に間に合わせました。仙台港はコンテナや自動車、漁船など大型の流出物が多く、その後の啓開作業では、浮遊物を陸揚げするとすぐに陸上が満杯になり、移動が必要になります。そこで、杭打機の解体に使った大型クローラクレーンとトレーラーをそのまま利用し、海陸連携体制で作業を進めました。
野木当社は地震発生時に八戸港で浚渫工事を行っていました。沖合に退避していた起重機船が3月13日に帰港後、その場で食料と燃料を積み込んで釜石港と宮古港の啓開作業に向かいました。津波警報がたびたび発令される中、退避を繰り返しながらの啓開作業となりました。20日には各港の啓開を担当する船が来たので、起重機船は帰港して八戸港の啓開作業に当たりました。起重機船のメンバーは家に帰ることもできない中で頑張ってくれました。
野木 秀高氏(司会) 津田 修一 福屋 昭治
岩本 和之 舘山 大樹 佐藤 雄一
全国各地から人と作業船が集結
新技術普及のきっかけに
野木当時、東北にはナローマルチビーム測深機は無かったと思いますが、東京で手配したのですか。
岩本当社は子会社が持っていた機械を借りて測量し、データを本社に送って分析していました。
津田ナローマルチビームの効果は絶大でした。とにかく測量しなければいけないというので、皆さんの方でどんどん準備してくれたということだと思います。ナローマルチビームは面的に測量ができるのと、海底にある物の形が非常に細かく分かるのが特徴です。海底に沈んだ支障物が八戸港では900点以上、仙台港でも400~500点ありました。それらに一つずつロープを掛けて拾い上げる作業が短時間ででき、速やかな航路啓開につながりました。啓開作業で使われたことが、その後にナローマルチビームが普及するきっかけになったと思います。
野木啓開作業では全国各地から作業船が集まりました。
岩本地震発生直後は地元建設会社が被災者だったこともあり、作業船が不足していました。そのため啓開作業の初期段階では東北以外の全国各地から合計20隻ぐらいを回航して、啓開作業に当たってもらいました。4月下旬には地元建設会社の活動が正常化し、作業の主体は地元建設会社に移りました。
野木啓開作業の後は復旧作業に入りました。苦労も多かったのでは。
佐藤小名浜港4号ふ頭の岸壁復旧工事に従事しました。支障物の撤去、岸壁法線の設定、荷役設備の復旧、船舶給水の切り回し・撤去・復旧、次々に出てくる追加工事といろいろ苦労したのを覚えています。中でも厳しかったのが工程です。セメント船が接岸する岸壁で、周辺の災害復旧工事にも使うセメントを運搬するため供用開始日が設定されており、休日返上で作業に当たりました。途中から従事した大船渡港の湾口防波堤北堤の工事では、捨石の調達に各社とも相当苦労していたようです。捨石均しでは重錘式の均し機械を採用し、上部工では防波堤上にラフタークレーンを配置して施工を効率化しました。南堤を担当していた東亜建設工業さんと協力しながらも、切磋琢磨していたのを覚えています。
岩本釜石港の湾口防波堤の復旧工事を担当しました。地元では人を集め切れず、九州と北海道の会社から来てもらいました。しかし作業員宿舎を釜石市内に確保するのが難しく、多くの作業員に遠野から釜石港まで通勤してもらいました。移動に1時間程度かかるので、残業や休日出勤をお願いして何とか工程を縮めるようにしました。釜石港では作業基地に専用の生コンプラントが作られましたが、各工事で生コンの取り合いのような状況になり、一つ遅れると他の工事も連動して遅れてしまうため、工程調整が大変でした。本体製作工事とともに担当したケーソンの撤去工事では、傾いたり、海面に少し頭を出して傾いたりしているケーソンを砕岩棒とグラブバケットでたたいて回収しました。グラブ浚渫船をケーソンの撤去に使うのは前代未聞で、初めはブームやワイヤードラムに故障や破損が多発しましたが、やがてコツが分かり、うまくいくようになりました。ケーソンの据付工事が進むにつれて港内の静穏度が高まり、防波堤の有り難みが改めて身にしみました。
舘山仙台港の啓開作業の後は、宮古港、釜石港、大船渡港の復旧工事に携わりました。とにかく人と物がなく、30~40人が入れる作業員宿舎を建てて全国各地から人を集めました。早期復旧のために発注工事の件数が多く、狭い場所に何件もの工事が集中するため、岸壁を使う順番、施工に入る順番を各社間で調整することが必要でした。施工面で苦労したのは大船渡港です。北堤と南堤の両方の先端の施工を担当したのですが、堤頭函の据付精度が航路幅の確保に影響するため、堤頭函を先に据え付けた後に隣のケーソンを挟み込んで据え付ける方法を採用しました。かなりの波が来る所で4,000t級のケーソンを挟み込む作業には相当に神経を使いました。
福屋九州から赴任し、すぐに仙台塩釜港仙台港区の防波堤築造工事に従事しました。施工計画で何より苦労したのは人員、機械、資材の手配でした。潜水士は九州支店にいた関係で鹿児島から呼んできました。グラブ船や起重機船の確保も困難で、九州・沖縄からの手配が中心でした。それに伴う宿泊場所や係留施設の確保などが大変でした。潜水士は東北の冷たい海に慣れておらず、手袋一つの確保にも苦労しました。また、潜水士の負担軽減と施工日数短縮の目的で沖縄から手配した水中バックホウを使って早期の完成に努めました。
野木思い出深いのは、多数のケーソンを撤去し、多数のケーソンを据え付けた八戸港と相馬港の工事です。先ほど岩本さんから話があったように、倒壊したケーソンを砕岩棒で破砕し、グラブで撤去しました。相馬港は岸壁が使えない上に第一線の沖防波堤が壊滅していたため、作業船は港内の小さな防波堤に仮設の係船柱を設置し、ぎゅうぎゅう詰め状態で係留していました。ケーソンの砕岩・撤去のスケールは八戸港の倍以上で、波浪の影響も大きく、外洋からのうねりに多くの作業船が苦しめられました。作業船の方々には沖に2カ月ぐらいの船内居住で作業をお願いしました。西の方から来た船が多かったのですが、文句も言わずに一日も早く復興しようと尽力してくれました。長い間かけて造った港が地震と津波であっという間に壊れてしまったことにむなしさやはかなさを感じ、今造っている港や防波堤が長く使われることを祈りながら作業を進めていたのを思い出します。
「粘り強い構造」が主流に
野木震災復旧の防波堤工事は、「粘り強い構造」という考えの下に工事が進められました。
津田津波が防波堤を越流したことで背後のマウンドが先掘されたり、港内外の大きな水位差によってケーソンが滑動したりしたことで倒壊したと考えられています。一方で、例えば釜石の湾口防波堤は7割が倒れたものの、一気にではなく、じわじわと倒れたのです。結果として、津波の高さを4割ぐらい抑え、到達時間を6分程度遅らせる効果があったことが分かっています。6分の間に避難できた人もいます。「粘り強い構造」とは、津波が天端を越流した場合も、破壊・倒壊までの時間を少しでも長くする、あるいは全壊に至る可能性を少しでも減らすといった減災効果を目指した構造上の工夫です。具体的には、港内側の基礎マウンドの拡幅・嵩上げや被覆石の設置によって洗堀を防止し、ケーソンの滑動も抑え込む構造としています。
野木今年3月11日には震災から10年の節目を迎えます。振り返って感じることは。
福屋震災1年後の2012年3月に九州から赴任した際、仙台空港から支店に向かう車から見た海側の景色は白黒写真を見ているような感覚でした。それから多くの復興工事に携わりました。当初感じた白黒写真が、関係者の努力の下、最近はカラー写真へと変わってきたと実感します。
舘山震災当時、仙台東部道路を走った時に、海側の壊滅的な状況と、比較的小さな被害で済んでいる山側を見て、この道路が防波堤になったのだと思いました。今後は日常生活に必要なインフラに、プラスアルファとして防災機能を備えてはどうでしょうか。それがより安全・安心な国につながるのではないかと思います。啓開・復旧工事では全国から人、船舶機械、材料が集まるのを目の当たりにし、日本の絆の強さも感じました。
岩本自然の猛威に人が抵抗することの難しさを痛感しました。しかし、人の力で作った湾口防波堤があったことで救われた命や財産もありました。そう考えると、我々建設業も微力ながら技術開発や工夫を重ね、後世に残せるものを造っていかなければと改めて思います。
佐藤啓開作業、復興作業に携われたことは非常に貴重で、誇れる時間でした。地域の人に感謝される仕事、社会貢献できる仕事ができたのは良い経験です。震災を経験して改めて感じたのは、備えること、想像することの大切さ。震災後はよく「想定外」と言われましたが、できるだけ想定しておくことの大切さを感じています。
津田震災当時は公共事業にとっては厳しい時代でした。その中で大きな災害が起き、建設業は施設の復旧・復興だけでなく、地域への物資の提供や支援などいろいろな面で能力を最大限に発揮してくれたと思います。結果として、建設業の必要性を再認識してもらえたのではないでしょうか。復旧・復興工事では、最新技術や全国の人や作業船をフル動員して当たっていただき、建設業が早期復興に果たした役割は大変大きかったと思います。こうした大災害はこれからも起こり得ます。想定を超えるものにも想像力を働かせ、いかに備えておくか。さらに最新の技術を蓄え、施工能力をいかに確保しておくか。そのためには普段の工事を通じて、人材の育成や技術力の向上、機材整備、作業船の確保などを進めていかなければなりません。公共事業を行う国や自治体は、建設業が本来の力を保てる事業のあり方を考えてほしいと思います。

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