最後の安住の地・小豆島の日々 |
妻と別れて以来、尾崎放哉の人生は、漂泊の日々となる。寺男として寺院での仮住まいを繰り返す生活には、かつてのエリートの面影こそ微塵もないが、俳人としてはこの頃から膨大な量の句を読み、次第にその才能を開花させていった。
こうして1925(大正14)年8月20日、40歳になった放哉は、小豆島霊場第五十八番札所・西光寺奥の院である南郷庵に入る。これは師である井泉水と小豆島在住の『層雲』同人・井上一二、そして西光寺住職の尽力によるものであり、小豆島は放哉にとって最後の安住の地となる。
瀬戸の海に近い二間の小さな庵での生活は、創作にはかけがえのない暮らしであっただろう。この小豆島・南郷庵(みなんごあん)時代こそ、俳人・尾崎放哉の最盛期であった。「咳をしても一人」の句も、この時期の作品である。つまり、この一見寂しげで無常観あふれる句は、むしろ安寧静謐の地を捜し求めた漂泊の俳人が、ついに見つけた閑寂の境地を詠んだのではないだろうか。咳をしても1人きりの、濃密で静寂な時を過ごす。これは優れた文人にとって、かけがえのないものだったのではないだろうか。
1926(大正15)年4月7日、放哉は南郷庵で42年の短い生涯を閉じた。小豆島に着いてから、わずか8か月足らずである。島で詠んだ作品の数々は、放哉の死後、井泉水によってまとめられ、唯一の句集『大空(たいくう)』として刊行された。
漂泊の俳人が見た小豆島の大空は、今も当時と変わらぬ青さで、島の周囲に広がっている。 |
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館内には放哉の作品や書簡などが
常設展示されている
[写真提供:尾崎放哉記念館] |
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西光寺に建てられた放哉と種田山頭火の句碑
[写真提供:尾崎放哉記念館] |
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