赤貧の暮らしから生まれた「鬼太郎」 |
漫画家・水木しげる(本名・武良茂)は、1922(大正11)年に、ここ境港に生まれた。武良(むら)家は、隠岐発祥の家柄で、戦国時代から続く豪族の家系。江戸時代には回船問屋を営み、大きな財をなしたという。また水木の祖父は実業家として成功し、ジャカルタでも事業を起こしている。
一方、水木自身も幼い頃から、いささか浮世離れしたキャラクターであった。父に買ってもらった油絵具で絵を描く毎日を過ごし、清華美術学校という図案の学校に入った。そこは教師が校長一人という学校で、大半は休み、しげるは、もっぱら家で頼まれもしない数十冊の絵本を描いて、一人で楽しんでいた。
長じてからは、太平洋戦争時に南方の戦争で九死に一生を得て、戦後は紙芝居の絵描き、貸本作家などの職につき、長らく赤貧の暮らしを送っていた。しかし、貸本業の衰退から当時興隆し始めていた漫画の世界に飛び込む。当初は、なかなか作品を認められることがなく苦しい時代を送ったというが、40歳代半ばになり代表作である『ゲゲゲの鬼太郎』が世間に認められ、一躍、売れっ子漫画家の仲間入りを果たす。
その後、昭和の時代の終わりとともに、漫画界の重鎮であった手塚治や石ノ森正太郎などが次々と鬼籍に入るなか、水木はいまや、「存命する最後の大物漫画家」と呼ばれる。
また漫画界の大御所という確固たる地位を築いたにもかかわらず、本人のいささか浮世離れしたユーモラスな人柄は変わらず、多くの人々の敬愛を集めている。 |
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約800mの「水木しげるロード」に、おなじみのキャラクターからマニアックな妖怪まで120体の像が並ぶ |
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