宮原晃一郎は、1882(明治15)年に、現在の鹿児島市加治屋町の旧薩摩藩士の子として生まれた。しかし10歳の時に父親の転勤で鹿児島から遠く離れた北海道・札幌に移住することになる。
その後、新聞記者となった宮原は、1908(明治41)年に文部省の新体詩懸賞に「海の子」と題する詩を投稿。これが佳作に当選し、翌年、国語読本に掲載された。さらに1910(明治43)年には音楽の教科書である『尋常小学読本唱歌』に「我は海の子」として掲載され、以後、現在に至るまで、子供たちの愛唱歌として歌い継がれてきた。
この歌は、宮原が少年時代、毎日のように通ったという錦江湾に面した天保山海岸の風景を思い描いて書かれたものだという。南国・鹿児島で多感な少年時代を送った宮原が、酷寒の北海道で青年となり、記者として活躍しながら、幼き日々を過ごした錦江湾の風景に、大きな郷愁を抱いていたであろうことは想像に難くない。
生まれてしおに浴(ゆあみ)して
浪を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の気を
吸いて童(わらべ)となりにけり
こう歌う2番の歌詞からは、宮原が抱えていた少年時代へのノスタルジアが伝わってくる。この歌の舞台となった天保山海岸は昭和30年代から埋め立てが進められたが、かつては白い砂浜の先に遠浅の海が広がり、周辺には塩田の姿も見られたのどかな景色であったという。
渚の風景はいささか変わってしまったかもしれないが、桜島を擁する錦江湾を望めば、今も宮原が心に描いたかつての「海」を見ることができるだろう。 |