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桜島の雄大な姿が錦江湾ごしに映える

我は海の子 Ware wa Uminoko
作詞:宮原晃一郎、作曲:不詳。文部省唱歌。1910(明治43)年に『尋常小学読本唱歌』に「我は海の子」として発表。以来、現在に至るまで100年近くに渡って親しまれている。戦前までは7番まで歌詞があったが、4番以降の歌詞の一部に、発表当時の世相を反映した植民地主義・軍国主義的な内容を含んでいたため、敗戦後に7番の歌詞が削られた。1947年からは「我は海の子」として3番までが小学校で教えられるようになった。2007(平成19)年に、「日本の歌百選」の1つに選ばれている。

近年まで不詳だった作詞者
 波おだやかな海面の向こう、雄大に煙を噴き上げる桜島。鹿児島市から望む錦江湾の風景は、この時期、初夏の光の中で一層鮮やかに見える。錦江湾という呼び名は通称であり、湾としての正式名称は鹿児島湾となる。大隈半島と薩摩半島に挟まれた錦江湾は、南北約80km、東西約20km、面積は1,130km2に及ぶ。湾内には今も活動を続ける活火山であり、鹿児島県のシンボルともいえる桜島が鎮座し、岩崎川や鈴川、米倉川が注ぐ河口付近には、天然記念物であるマングローブ林の北限・メヒルギの林が美しい景観を保っている。
 鹿児島駅からのんびりと歩いて10分ほど、目の前に海を隔てて桜島を望む祇園之洲町にある鹿児島市福祉コミュニティーセンターのそばには、見るからに建てられて間もない、唱歌「我は海の子」の石碑を見ることができる。
 この石碑が建てられたのは、2001(平成13)年7月20日の海の日である。この唱歌の作詞者である宮原晃一郎が鹿児島県出身であり、少年時代、付近の天保山公園から錦江湾を眺めた際の情景をうたった歌詞であることから、この石碑が建てられた。
 しかし、唱歌としては今から100年近く前に発表された曲の石碑が、ごく最近になって建てられたのには訳がある。実は唱歌「我は海の子」の作詞・作曲者は、長年にわたって不詳とされてきたのだ。ところが近年になり、宮原の長女である典子氏が、文部省募集の新体詩の入選通知と著作権譲渡要請の手紙を保管していたことが明らかとなり、半世紀以上にわたって不詳であった作詞者が明らかになったのである。

作者の心の風景・錦江湾
 宮原晃一郎は、1882(明治15)年に、現在の鹿児島市加治屋町の旧薩摩藩士の子として生まれた。しかし10歳の時に父親の転勤で鹿児島から遠く離れた北海道・札幌に移住することになる。
 その後、新聞記者となった宮原は、1908(明治41)年に文部省の新体詩懸賞に「海の子」と題する詩を投稿。これが佳作に当選し、翌年、国語読本に掲載された。さらに1910(明治43)年には音楽の教科書である『尋常小学読本唱歌』に「我は海の子」として掲載され、以後、現在に至るまで、子供たちの愛唱歌として歌い継がれてきた。
 この歌は、宮原が少年時代、毎日のように通ったという錦江湾に面した天保山海岸の風景を思い描いて書かれたものだという。南国・鹿児島で多感な少年時代を送った宮原が、酷寒の北海道で青年となり、記者として活躍しながら、幼き日々を過ごした錦江湾の風景に、大きな郷愁を抱いていたであろうことは想像に難くない。

 生まれてしおに浴(ゆあみ)して
 浪を子守の歌と聞き
 千里寄せくる海の気を
 吸いて童(わらべ)となりにけり

 こう歌う2番の歌詞からは、宮原が抱えていた少年時代へのノスタルジアが伝わってくる。この歌の舞台となった天保山海岸は昭和30年代から埋め立てが進められたが、かつては白い砂浜の先に遠浅の海が広がり、周辺には塩田の姿も見られたのどかな景色であったという。
 渚の風景はいささか変わってしまったかもしれないが、桜島を擁する錦江湾を望めば、今も宮原が心に描いたかつての「海」を見ることができるだろう。



 
錦江湾に臨む祇園之洲公園に建つ
「我は海の子」の歌碑
 
作詞した宮原晃一郎
 
いつの時代も、海は子どもにとって鮮やかな思い出を残す
 

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