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Cover Issue  紀伊半島の西側の海域には、特徴的なリアス式の岬が点在する。そのなかで「宮崎ノ鼻」「白崎」という二つの岬のあいだを、陸へ入り込んだ入江の奥に湯浅広港がある。
 湯浅広港は、広川を挟んで湯浅町と広川町にまたがる。この地域は、かねてから津波による大きな被害を受けてきた。津波が襲来するサイクルは100〜150年。その間、地域住民たちは先人の教えを次代へと受け継ぎながら、被害を最小限にとどめる取り組みをつづけている。
 いまや世界共通語となった“TSUNAMI”の恐ろしさを知り、対策に先んじたみなとまちの防災活動に、熱い視線が注がれる。

湯浅広港の歩み  湯浅の特産品として商品化された醤油が、海上輸送で大阪へ運ばれるようになったのは安土桃山時代。やがて江戸時代に入ると関東地方へも出荷されるようになり、原料の塩や大豆の移入と合わせて湯浅の港は大いに栄えた。
 1953(昭和28)年、地方港湾の指定を受け、現在の取扱貨物は砂・砂利が主となっている。
 湯浅湾の奥に位置する湯浅広港の港内は、平常時はおだやかだが、これまで地震による津波被害を幾度も受けてきた。現在、数十年後には発生すると予想される東南海・南海地震に備え、防波堤の整備が進められている。

アクセス [鉄道]JR紀勢本線湯浅駅/広川ビーチ駅下車 [車]阪和自動車道「吉備I.C.」より約10分

みなとの歩んだ歴史の面影が、いまもまちに色濃く残る

「稲むらの火」を生んだ町
 入り江に設けられた船着場には、年季の入った多数の漁船が静かに揺れ、沖へ目をやれば紀伊の島々が見渡せる。湯浅広港のおだやかでどこかノスタルジックな風情からは、かつて8回も大津波に襲われてきた歴史は、微塵も感じられない。特に1707(宝永4)年、1854(安政元)年に発生したマグニチュード8.4を超える地震と大津波では、壊滅的な打撃を受けた。
 港の南側の広川町、かつての広村では、300名近い人命が奪われた宝永の大津波以来、地震のあとにはいち早く高台へのぼって津波を避けるよう、代々言い伝えられてきた。安政の大津波での死者数が、宝永のときの約十分の一に抑えられたのも、広村に古くから根付いていた防災意識の賜物といえる。それを象徴するのが、広村が生んだ偉人・濱口梧陵(はまぐちごりょう)の功績である。
 安政の大津波が起きたのは、梧陵が房州(現・千葉県)から広村へ帰省中のことであった。梧陵は第一波に巻き込まれたが、高台に辿りついて事なきを得た。直後、梧陵は刈入れの終わった田んぼの稲束に火をつけ、この明かりで村人を誘導し、立て続けに襲来した津波から多くの人を救った。この実話を題材にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が小説「生き神様」を著し、さらに1937(昭和12)年には小学生の教材用に、中井常蔵教諭により「稲むらの火」として書き改められた。
 被災後、梧陵は100〜150年ごとに襲来するといわれる津波への備えとして、また被災した村人に生活手段を与えるため大堤防の建設に着手。4年の歳月を経て完成を見た。
 この「広村堤防」のおかげで、1946(昭和21)年の南海地震で広川町が波高4mの津波に襲われた際には、堤防の内側の市街地において一部の民家に浸水する程度の被害にとどまった。梧陵の百年の計は見事に的中したのである。

[写真左]湯浅広港の背後には広川町と湯浅町が広がる
[写真右上]昭和南海地震の約10年後の広川町。正面の防潮林の裏に広村堤防が隠れている
[写真右下]現在の広川町。湾の埋立が進み、造成地に役場庁舎や分譲住宅が建つ

[写真左]まちの防災に尽力した濱口梧陵(1820〜1885)の功績は、広村から広川町へ町名を変えてもなお
     語り継がれている
[写真中]広村を襲う安政南海地震津波の実況図
[写真右]現在の広村堤防中央部。奥に見える赤門が閉ざされ、昭和の大津波から市街地を守った

日本の味のふるさと
 湯浅広港に流れ込む広川の北側の湯浅町は、かつて熊野への参詣道として賑わった歴史を持つ。世界遺産に指定された熊野古道は紀伊山地全域に広がっており、その大半が山道であるが、湯浅町の参詣道は市街を抜けている。町に残る時代劇のセットのような民家や商店は復元された建物ではなく、往時のままの造りでいまなお使用されているものだ。
 みなとまちとしての歴史にも特筆すべき点がある。現在では砂・砂利を主要品目に、年間約90,000tの貨物を取り扱う湯浅広港だが、江戸時代には当地の特産物である醤油の海上輸送で栄えた。湯浅町は醤油醸造業の発祥の地なのだ。その歴史は13世紀にまでさかのぼる。
 鎌倉時代、湯浅の僧侶が中国で修行するかたわら、麦に大豆と塩、野菜などを混ぜて熟成・調味する径山寺味噌(きんざんじみそ)の製法を習った。帰国後に西方寺(現・興国寺)を建立し、在山すること40余年。そのあいだに径山寺味噌の製法を伝授したのが、これも湯浅の特産品である金山寺味噌(きんざんじみそ)の始まりだ。そして、この味噌づくりの際、樽の底に沈殿した液汁が日本人の食生活に好適であった。これが醤油の起源である。
 当時の交通の不便さもあって、長年にわたり自家用醤油の域を出なかったが、安土桃山時代に入ると商品として出荷されるようになる。さらに時代を下ると、徳川御三家紀州侯の保護を受けて醤油の醸造が発達。関東地方の銚子をはじめ、全国各地へ湯浅の醤油が廻船で運ばれるとともに製法も伝えられた。前述した梧陵が、銚子で醤油醸造業を営んでいた由縁もここにある。
 原料の塩や大豆を移入し、醤油に仕上げて日本中へ。みなとまち湯浅が栄えた面影は、町に漂う醤油の香りと、醤油専用の積出ふ頭だった「大仙堀」にいまも求めることができる。

[写真左から1枚目]白魚や鯵、鯖などの漁業が盛んな湯浅町
[写真左から2枚目]湯浅町の一角には昔ながらの造りの家屋が並ぶ
[写真左から3枚目]熊野古道の道しるべとなる立石
[写真左から4枚目]醤油専用の積出しふ頭「大仙堀」
[写真左から5枚目]江戸時代の豪商・紀伊国屋文左衛門のみかん船にちなんだモニュメントが残る

広川町中央公民館
清水 勲 館長
濱口梧陵の献身を支えたもの
 講演や寄稿を通じて、濱口梧陵翁の功績や生涯をより多くの人に広める活動をしています。
 濱口梧陵翁というと「稲むらの火」の題材となった救助活動がクローズアップされがちですが、津波の危険が去ったあとの活躍にこそ、翁の偉大さが表れています。自らも200俵の米を拠出しながら、数日間1,400人の飢えをしのぎ、家屋や家財の整理、道路の復旧、さらに私財を投じて家屋50軒を建てて困窮者を住まわせるといった献身的な活動でした。広村堤防の築造は、いわずもがなでしょう。
 翁は朱子学や陽明学など、幅広い学問を修めることにより、人のために尽くす「仁の心」、そして行動を優先する実践哲学を身につけていたからこそ、このような功績を残した。わたしたちが学ぶべき点は多いと思います。(談)

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