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舞鶴港は京都府の日本海側、若狭湾の西に位置する重要港湾だ。京都府北部地域の開発拠点としてのみならず中国、韓国をはじめとする対岸貿易の拠点として発展してきた、近畿圏の門戸ともいえる港である。「軍港」「引き揚げ港」として数々のドラマの舞台となった舞鶴港は新世紀を迎え、経済拠点港として整備が進められるなか、一方では恵まれた自然、赤レンガの建物群、城下町の風情が残る美しい港だ。


(写真:国土交通省舞鶴港湾工事事務所)

城下町の海の玄関として出発した西港
西港の船溜まり
舞鶴引揚記念館
東港はかつて軍港として整備された歴史を持つ
かつての北前船の航路を大型フェリーが走る
コンテナヤードのクレーンは西港のランドマーク
山並みと港のコントラストが美しい西港

歴史を異にする二つの港
 京都から特急列車を乗り継いで北上すること1時間半、若狭湾に面した舞鶴のまちに着く。駅前から港まで今でも町並みの至るところに歴史の舞台となった港町の風情が漂っている。

 舞鶴港はその発展の歴史を異にする東西二つの港から形成される。真上から見るとまさしく鶴が羽を広げたように海が深く陸側入りこんでいる舞鶴港。その左の翼にあたる港が西港、中央の戸島を挟んで反対側が東港だ。二つの港を合わせると25km、海岸線延長約70kmに達する大きな港だが、その湾口部は最も狭いところでわずか700mだ。日本海の荒波が侵入することもなく港内は常に静穏な状態を保っている。何しろ大型の防波堤を必要としないほどの天然の良港なのだ。

 西港一帯はかつて田辺と呼ばれ、16世紀末に歌人としても有名な細川幽斎とその子忠興が田辺城を築いてから城下町として発展してきた。舞鶴の経済、商業、交易活動はこのエリアから始まったと言える。城の北側には日本海が迫り、東西には川、南には湿地が広がりまさに天然の要衝であった。海を外堀として利用したり、船着き門を設けるなど海を強く意識した築城であったという。田辺城はその威容があたかも鶴が翼を拡げて舞っているような優美な姿であったことから「舞鶴城」とも呼ばれ、それから舞鶴の地名がつけられたとの説がある。

 江戸時代には北国の米を京都、大坂、神戸といった大都市に供給する西廻り航路の寄港地としてにぎわい、明治以降は近畿エリアの日本海側の玄関口として、中国、朝鮮との対岸貿易が盛んに展開されていた。

 一方、東港エリアは明治中期まで平凡な農漁村に過ぎなかったが、1901(明治34)年10月、舞鶴鎮守府の開庁に伴い、横須賀、呉、佐世保に次ぐ四番目の軍造船施設である舞鶴海軍造船厰が発足したのを契機に軍港として急速に発展した。1903(明治36)年に造船厰と造兵厰と合併して海軍工厰となり、当初は艦艇の補修を主な目的としていたが、駆逐艦、水雷艇などの小型艦艇建造や水中兵器の製作などその規模を拡大し、軍都としての色彩を強めていく。

 1922(大正11)年7月、ワシントン軍縮会議の決定を受け鎮守府が廃止されたが、東港は貿易港へと積極的に転換されていく。同年の敦賀〜舞鶴間の鉄道開通を機に、翌大正12年、「舞鶴港開港記念博覧会」が開催され18万人近い来場者を迎えた。同年には舞鶴〜小樽間の航路が開通し、商港としての第一歩を踏み出している。その後、昭和に入り、戦時色が濃厚になると14年振りに海軍工厰が復活し、再び活況を呈するようになる。

 第二次世界大戦の勃発、そして終戦。軍港から一転、舞鶴港は中国やソ連からの帰還兵や在留邦人を迎え入れる基地となった。昭和20年10月7日、引揚げ船「雲仙丸」が入港して以来13年間の長きにわたり、66万余人の引揚げ者と遺骨1万6千柱を迎え入れた。シベリアでの抑留生活に耐え、想像を絶する強制労働に心身ともに打ちのめされた引揚げ者たちは、船上から舞鶴の山並みを目にして、込み上げる涙に頬をぬらしたという。引揚げの地を見下ろす東港の小高い丘に昭和45年「舞鶴引揚記念館」が開設され、平成6年には引揚げ桟橋も当時のままの姿に復元され、平和の尊さを語り継いでいる。

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