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港を中心に鉄道・道路が整備され、東北海道の物流の拠点となっている釧路港。広大な後背地や海からの豊かな物資がこの釧路港を経て北海道の他の都市へ、また全国へと供給される。流通をとおして日本人の暮らしを支えている釧路港の街を辿る。


市の北側には国内最大規模の釧路湿原国立公園が広がる。湿原のメカニズムや希少価値を持つ動植物の生態などまだまだ未解明な部分が残されている

春採で産出された石炭は釧路港から横浜の火力発電所などに送られる

北海道東方沖地震の後、既存の建物の下に向けてドレーン材が打設され地盤改良が行われた

国内最後の石炭列車24輌が、春採炭鉱の選炭工場から石炭を満載して、釧路の積み出し港に着いた。貨車の底が開かれ勢い良く石炭が降ろされる。ピーク時には道内で1200輌もの貨車が稼動していた

港と鉄道とが発展させた
石炭採掘事業


 釧路の地名はここがかつて「クスリ」と呼ばれていたことに由来する。寛永年間(1624−1643年)には松前藩の船が定期的に訪れてアイヌと交易をするようになり、18世紀の半ばごろからは木材や昆布の積み出しが始まった。1799(寛政11)年に蝦夷地が幕府領になると本州から移住した農民や、マグロを追ってくる漁民も増え、クスリ会所や宿などが設けられる。このころには釧路は漁業や交通の拠点となっていた。

 釧路港が開港したのは明治32年のこと。港湾部の本格的な修築事業は札幌農学校教授の廣井勇の基本構想を踏まえ、道庁の技師の設計案により明治42年から始められた。

 これに先だって明治維新の頃から始められていた石炭の採掘は、箱館(函館)の開港に伴い、入港する外国船に燃料を供給するのが目的だった。明治32年、石炭を搬出するための2kmあまりの鉄道馬車「馬鉄」が敷設され、出航を急ぐ船があれば馬の鼻先にカンテラを下げて走らせるほど高い稼働率を誇っていた。現在でも春採の選炭工場から4kmの道のりを国内最後の石炭列車が逞しく稼働している。

 当時から東道の物資集散基地として地域の経済を支えていた釧路港を、北海道東方沖地震が襲ったのは平成6年10月のことだった。この地震で東港区を中心に液状化の被害が発生し、ドレーン(排水)材を埋設し、この中に過剰間げき水を取り込んで地表に排出する大規模な排水工事が行われた。既存の建造物の真下の地中にまで液状化対策を施すため、斜め方向にドレーン材を打設する斬新な工法が採用された。

 現在では地震の爪痕を探すことが困難なほど、整然と整備された港湾部を起点に、釧路の町を辿ってみた。

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