1801(享保元)
1818(文政元)
1821(文政4)
1823(文政6)
1835(天保6)
1837(天保8)
1841(天保12)
1853(嘉永6)
1854(安政元)
1855(安政2) |
韮山代官第35代当主江川英毅、母久子の次男として、伊豆・韮山にて生まれる。
江戸に出て、神田の神道無念流道場に入門、剣術の本格的な稽古を始める。
達人の誉れ高い剣客・斉藤弥九郎の指導の下、2年後に免許皆伝を授かる。
兄・英虎の死去により、嫡子に。
旗本・北条氏征の娘と結婚。翌年から韮山代官職見習となる。
前年の父の死去を受けて、韮山代官に就任。
この年、江戸にて渡辺崋山や高野長英らが集まる学問グループ「尚歯会」が結成。後に英龍も参画する。
かつての兄弟子・斉藤弥九郎を手代とし、甲州を微行。一揆を未然に防ぐ。
その後の領内での善政から、領民より「世直し大明神」と呼ばれるようになる。
高島秋帆に入門し、西洋流の砲術を修める。
翌年、江川塾を開き、佐久間象山をはじめとした多くの弟子に西洋砲術を伝える。
浦賀にペリー来航。幕府海防掛勘定吟味役格となり、品川台場築造の命を受け起工。
ペリー再来日。日米和親条約が調印され、下田、函館が開港。
品川台場完成。幕府より勘定奉行への命が下り江戸へ。
1月16日、江戸・本所にて死去。享年55歳。 |