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明治後期に端を発し、いまなお繁栄をつづける神戸港と森垣亀一郎

神戸港で採用された日本初のL字型浮ドック
[(社)土木学会附属土木図書館所蔵]
 
ケーソンの曳航
[(社)土木学会附属土木図書館所蔵]
 
「東洋一」の貿易港の築港
 「海は金甌(きんおう)を環り港湾は是れ門なり/石岸の鉄路は鵬(ほう)を運らせ鯤(こん)を游がす/舟車輻輳して貿易慇繁ならん/一時の工費は万世の富源なり」
 1907(明治40)年、時の大蔵大臣である阪谷芳郎の碑文が刻まれた基石が埋められ、神戸港第一期修築工事が始まった。
 当時、神戸は古来からの海運の拠点とはいえ、実際には限りなく自然港に近いものであり、到底、近代的な海運に耐えうる施設ではなかった。このため1873(明治6)年、神戸県令(知事)は英国人ジョン・マーシャルが立案した修築案を大蔵省に提出するが、財政難を理由に却下される。しかし神戸の人々の港湾修築の想いは固く、1896(明治29)年、神戸市会は「東洋一の港と呼ぶにふさわしい完全な設備を建設すべき」との築港建議書を満場一致で可決し、兵庫県に提出。これにより、ようやく神戸港の近代化が始まることになる。
 
若き建築技師・森垣亀一郎
 神戸市会の築港案は埋立面積141万9,000mで、泊地面積555万m。防波堤は3,040mが1本と1,780mが1本。岸壁は深さ7.5mが1,000m、深さ9mのものが790mという、現在のポートアイランドや六甲アイランドに匹敵する、壮大なプロジェクトであった。
 この大築港工事の要となったのが、当時33歳の若き建築技師であった森垣亀一郎である。
 森垣亀一郎は1874(明治7)年、但馬・豊岡生まれ。3人兄弟の次男であり、幼い頃に父を亡くした。母親の稼ぎのみで暮らす貧しい家庭であったようだが、亀一郎は幼少の頃から学業の成績は抜群であり、神童として知られていたという。これを惜しんだ小学校の校長の薦めで地域の事業家の支援を受け、東京の第一高等中学校に進学する。在学中に支援が途絶えるも、亀一郎は自分で働きながら東京帝国大学の土木科に進学。1898(明治31)年に同校を卒業した。
 この時期は、日本国内で大規模河川の改修工事が盛んに行われ始めた時期であり、亀一郎のような少壮気鋭の人材が多いに求められていた時代でもあった。亀一郎は技手として、当時の大阪市築港事務所に入り翌年には技師となる。その後は大阪港の大桟橋の建設に腕をふるい、完成後は備前・犬島に赴任、仕事に打ち込んでいた。
 
日本初のケーソン製作
 1906(明治39)年、犬島にいた森垣亀一郎は、建設責任者として神戸港に赴任する。亀一郎は、まずオランダのロッテルダムに派遣され、当地で2年前に実施された世界初の工法である、鉄筋コンクリート函による岸壁工事とコンクリートケーソンの据付工法を学ぶ。帰国後は、当時、わずか1冊しかなかった鉄筋コンクリートの資料『コンシデール』をもとに、設計を行った。
 しかし、この段階で、ケーソンをどこで造り、据え付けるかという問題が浮上。亀一郎はバルセロナ港で行われていた据付工法を参考に、ケーソンを櫛型桟橋上で製作し、櫛型浮船渠で浮遊させる、日本初のL型浮ドックによるケーソン製作方式を考案。これにより、1908(明治41)年からケーソンの製作を開始、翌年、第一函の進水と据付を行うことに成功する。高さ10.76m、幅10.3m、重量およそ2,000tのケーソンの製作は、鉄筋組立1ヶ月、型枠組立22日、コンクリート打設には6日を要し、大工や鳶など延べ800名以上が携わる大工事であった。
 以後、亀一郎は18年間にわたり神戸港の修築工事の指揮を執り、神戸の都市計画にも貢献。鬼籍に入ったのは1934(昭和9)年であった。晩年の亀一郎は、自身が指揮をとって作り上げた神戸港について、「世界一流港湾と対比しても少しも遜色を認めない」と語っている。この言葉が単なる自画自賛でないことは、その後の神戸港の発展と日本経済への貢献が、如実に証明していると言えるだろう。
 
     
ケーソンの製作が終わると、L型浮ドックを半ば沈めて、函台の下に差込む   浮ドック内部の海水を排水して上昇させ、水平部に函台ごとケーソンに載せる   ケーソンを載せて桟橋前面のドックプールに引出し、浮ドックに注水する   注水された浮ドックは沈んで、ケーソンが浮遊する
ケーソンを引き出し、浮ドック内部の海水を排出して浮上させ再び浮ドックを桟橋に差込み、函台を元の位置に戻す

森垣亀一郎の歩み
1874(明治7)

1898(明治31)
1899(明治32)
1900(明治33)
1901(明治34)
1903(明治36)
1906(明治39)
1907(明治40)
1910(明治43)
1919(大正8)
1934(昭和9)
但馬・豊岡で、3人兄弟の次男として生まれる。幼少時に父を亡くし母に育てられるが神童ぶりを発揮。
素封家の支援で、東京の第一高等中学校を卒業
働きながら東京帝国大学土木科を卒業。大阪市築港事務所に技手として奉職する
技師に昇格。仕事の傍ら、さらに土木学の学問にも励んでいたという
神矢粛一の次女ふみと結婚
桟橋工場主任となり、大阪港大桟橋建設の指揮を執る
大阪港大桟橋の完成後、備前・犬島の採石場に赴任
神戸港の建設責任者となる。築港に当たり、オランダ・ロッテルダムに派遣される
神戸港第一期修築工事開始
第一号函据付
第二期修築工事開始。
港湾のみならず、埋立・河川改修、都市計画にも尽力した後に没。享年60歳

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