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川村孫兵衛の功績を称え、報恩感謝の意を込めて開かれる「石巻川開き祭」と市内の日和山公園に建てられた川村孫兵衛像(写真提供:石巻市商工観光課)

川村孫兵衛が工事を行う前の北上川流域。この頃から新田開発のための整備は行われていたものの、洪水と平地の湿地化は防ぎきれなかった
川村孫兵衛は、柳津-飯野川間の遮断、北上川と迫川・江合川の流路を和渕で合流、水害防止、灌漑用水の確保などの改修工事を行った
(出典:国土交通省東北地方整備局塩釜港湾・空港整備事務所)
 
石巻川開き祭で行われる「孫兵衛船」の競漕
(写真提供:石巻市商工観光課)
 
現在の石巻港
 
  工事を指揮する川村孫兵衛の図(八雲神社所蔵)
 
繁栄の礎を築いた功績者への崇敬
 旧北上川の河口に位置する石巻市は、東北地方有数の港湾都市である。古くから水産加工が盛んであり、また、昭和40年代からは工業の街としても大きく発展を遂げた。
 当地の背後には、仙台平野の田園地帯が広がる。言わずと知れた日本を代表する銘柄米「ササニシキ」の産地だ。江戸時代、幕府から62万石の大領地を与えられた仙台藩主・伊達政宗は、藩政の経済基盤を整える必要性から新田開発を奨励するとともに、米を運ぶ水路の開削を進めた。
 現在の石巻の繁栄は、ひとえに水田の開発および水源・輸送水路の確保に成功したことに端を発したといえる。完成から380年を経てなお、市民は街の成り立ちと先人の功績に思いを馳せる。そのひとつの表れが、毎年8月に開催される「石巻川開き祭」だ。1916(大正5)年に始まった当地最大の祭りは、北上川改修工事を指揮した藩士にして治水職人・川村孫兵衛への報恩感謝が込められている。
 
大難関の改修工事に踏み切る
 川村孫兵衛が、治水・土木の技量を買われ伊達政宗の招きに応じて仙台藩に移ったのは1601(慶長6)年のこと。その条件として500石の領地を提示された孫兵衛はこれを辞し、「代わりに荒地をいただきたい」と申し出た。認められるや否や、孫兵衛は荒地の開墾に取りかかり、数年をかけて1000石の美田に変えた。その後も、藩内の土木工事や鉱山開発、運河の建設にいそしんだ。孫兵衛の働きぶりは目覚しいものであったうえ、人夫たちからも厚い支持を集めた。厳しい肉体労働に耐える彼らのために、野天の風呂をつくった。孫兵衛のもとで働きたいと申し出る人夫が多数現れたという。
 そのようななか、前代未聞の天災が藩を襲う。1611(慶長16)年10月28日、三陸沖を震源に起きた大地震は、現在の科学的推測調査によればマグニチュード8.1。津波により1800人近くが溺死したという記録が残っている。
 孫兵衛は、震災によって荒れ果てた町の様相を目にし、大きな衝撃を受けた。自分が工事を手がけた堤防が決壊し、人々の家を流していたのである。
 被災状況を視察した翌日、川村は伊達政宗の謁見にあずかるべく城へ上った。北上川の中・下流域の改修工事をかけあうためである。
 当時、仙台平野には川幅の狭い急流が随所にあり、大雨が降るごとに洪水を引き起こしていた。そのため湿地帯や湖沼地帯が広がり、新田開発は難問中の難問とされていた。孫兵衛といえども実現に移せずにいたが、もはや手をこまねいている場合ではない。
 これまでの孫兵衛の実績と熱意を知る政宗が否を唱える理由はなかった。
 
水田と港が藩経済の源に
 この工事の基本方針は、洪水箇所の流れを遮断するとともに、この地の本流である北上川と迫川(はざまがわ)、江合川(えあいがわ)の流路を合流させるというものだった。これにより、一帯の川の氾濫を防いで新田開発に資するとともに、北上川の水量を安定させ、安全に船が航行できるようになる。空から見下ろすことのできない時代、これほどの構想をまとめて実行に移すことは至難の業である。孫兵衛は慎重に調査・検討を重ねた。 
 着工してからは、孫兵衛は設計や現場監督のみならず、自ら工事資金の調達に駆け回るほか、工事に伴って移転を余儀なくされた人々の年貢の減免を藩にかけあった。人夫たちは、自分らと寝食をともにする孫兵衛に応えようと身を粉にして働いた。その甲斐あって工事は1626(寛永3)年に完成した。
 北上川改修工事の成功は、仙台藩の急速な新田開発につながったが、孫兵衛の功績はそれだけにとどまらなかった。併せて進められた石巻港の築港工事により、この地を米の集散地とした海運ルートを開発したのである。
 開港後、仙台藩から江戸へ送られた米は30万石にのぼり、江戸の米相場を左右した。「武江年表」の1632(寛永9)年には、「今年より奥州仙台の米穀はじめて江戸に廻る。今に江戸三分の二は奥州の米の由なり」との記述が残されている。
 孫兵衛が石巻に水田と港を設けたことで、仙台藩に莫大な利益がもたらされたのである。

川村孫兵衛の歩み
1575(天正3)



1600(慶長5)

1601(慶長6)
1616(元和2)
1623(元和9)
1626(寛永3)

1648(慶安元)
長門国阿武郡(現山口県萩市)に生まれる。
幼名・満吾郎。算術を筆頭に幅広い学問を修め、
治山治水の土木技術のほか、天文、測量、採鉱などを習得。
中国地方の大名・毛利輝元に仕える
関が原の戦いの敗戦に伴う毛利家減封を機に、
近江国蒲生郡(現滋賀県蒲生郡)へ移住
仙台藩主・伊達政宗の家臣となり、鉱山の開発と運河の建設を手がける
北上川中・下流域の改修工事の計画に着手
改修工事着工
改修工事完成。
功績を称えられ伊達政宗から拝領した土地は三千石に及ぶ
逝去。享年74歳

[参考資料]運河−物語・川村孫兵衛重吉伝(偕成社)

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