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現在の四日市港(写真提供:四日市港管理組合)と稲葉三右衛門(写真提供:稲葉元孝氏)

四日市築港起工式
(写真提供:四日市港管理組合)
 
四日市港の築港工事の様子
(写真提供:四日市港管理組合)
 
毎年8月初めに行われる「大四日市祭」は、三右衛門の銅像への献花から始まる(写真提供:四日市市)
 
1872(明治5)年に県へ提出した港修築の願書(写真提供:四日市市立博物館)
 
震災の港で生涯の事業に立つ
 江戸時代の後期、安政年間は文字どおり“激震”の時代として幕を開けた。1854(安政元)年と翌年にかけて、未曾有の大地震が集中して日本列島を襲ったのである。安政の大地震というと一般には安政2年の江戸の震災を指すが、実は元年の11月4日に東海地方をマグニチュード8.4、翌日に和歌山から徳島にかけて同規模、7日には愛媛から大分にかけてマグニチュード7.4と、わずか4日のあいだに阪神淡路大震災を上回る地震が3回も襲ったのである。それぞれの地震が重なる地域では、とりわけ被害が大きかった。現在の三重県四日市市もそんな地域のひとつだ。
 江戸時代の四日市の港は、東西交通の要衝として伊勢湾内の各地へ航行する船が盛んに出入りしていた。しかし大地震で堤防が決壊し、干潮時には小舟の出入りもままならないほど遠浅になってしまった。明治に入って複数の海運会社が四日市への寄港を計画したものの、港湾施設の不備のあまり二の足を踏んだ。こうした状況に「港の発展がなければ四日市に未来はない」と人一倍の危惧を抱き、生涯を四日市の築港に捧げる決意を懐に立ち上がった男がいた。当地の廻船問屋にして豪商、稲葉三右衛門である。
 
盟友との別れと存続の危機
 港の修築に私財を投じる決意を固めた三右衛門は、まず盟友の同業者、田中武右衛門と夜を徹して語り合い、二人の連署で三重県参事宛ての四日市港修築の願書をしたためる。二人が苦心して作成した願書を提出したのが明治5年の11月13日。許可はその日のうちにあっさりと下りる。ほんの一文の簡潔な許可書。これが三右衛門の苦闘の始まりだった。
 翌年から三右衛門らは工事に着手。当初は順調に進捗したが、やがて資金が底をつき始める。46,000m2の埋立工事に加え220mに及ぶ波止場の修築を人力で行う。人件費が莫大にかさむのである。三右衛門は資金調達に奔走する。三右衛門を動かしたのは築港への宿願はもちろん、人夫たちの過酷な労働に報いるためでもあった。
 そんな三右衛門を、着工から半年にも満たないうちに大きな試練が襲う。田中武右衛門が工事から手を引きたいと申し出てきた。武右衛門は資金調達に万策尽きたのである。盟友の離脱に三右衛門は天を仰いだが、武右衛門には武右衛門の道があり、自分には自分の人生があると闘志をかき立てた。
 同年の暮れには運河掘割が完成するが、ここで三右衛門の金策も底をつき、県の手に工事を委ねることを余儀なくされる。生涯の事業が志半ばにしてついえたかに見えた。
 
功利でも功名でもなく
 工事が県の事業になったという事実は三右衛門にとって挫折ではなく、雌伏のときの始まりだった。引き続き金策に走り回ったのである。資金の目処が立つや否や三右衛門は県に事業再開願を提出するも、ことごとく退けられ続ける。しかも、竣工まで埋立地の地券・借地料を県が保管することになった。この処置を権力の横暴と見た三右衛門は県を相手に訴訟に出るがこれも敗訴。しかしどうにも治まらず、今度は内務大臣へ直訴に及んだ。そして1881(明治14)年、ついに三右衛門は工事を県から自らの手に取り戻したのである。
 工事再開後も金策の苦労は続いたが、最初に工事許可が下りてから12年を経た1884(明治17)年、三右衛門の築港事業は完成を見たのである。総工費は当時の額で20万円(現在の約100億円)といわれており、三右衛門は私財を使いきったうえ莫大な借金を負った。
 仮に工事の完成までを県が手がけたとしても三右衛門の名は築港の功労者として後世に語り継がれたはずである。というのは、工事中断の段階で三右衛門が埋立を終えていた土地には、すでに町ができており「稲葉町」そして妻の名「たか」を引いた「高砂町」という町名がつけられていたのだ。
 功利でも功名でもなく、意志を貫くための意志。公に寄与することを最上の価値とした精神は、単に明治人の気概と片づけられない気高さとはいえまいか。
 三右衛門が藍綬褒章を受けた翌年の1889(明治22)年、四日市港の堤防が暴風雨で決壊した。この修復のため、三右衛門の築港の志を受け継ぐかのように造られたのが、近代の港湾設備の傑作として名高い「潮吹防波堤」である。
 
参考資料:「稲葉三右衛門(築港の偉傑)」日本出版社
     「NET345第4号」四日市港湾事務所

稲葉三右衛門の歩み
1837(天保8)

1851(嘉永4)
1855(安政2)
1870(明治3)

1872(明治5)

1873(明治6)
1874(明治7)
1875(明治8)
1876(明治9)

1878(明治11)
1881(明治14)
1884(明治17)
1888(明治21)
1914(大正3)
美濃高須の旧家吉田詠甫の六男として生まれる。
幼名九十郎
四日市の廻船問屋、稲葉家の養子となる
稲葉家の跡を継ぎ六代目稲葉三右衛門となる
横浜港を視察。オランダ人技師ビールスのもとで
測量の方法など築港に必要な知識を学ぶ
同業田中武右衛門と連著で
「四日市港波戸場建築灯明台再興之御願」を県庁に提出
四日市港築港に着手
資金調達に行き詰まり築港事業中断
築港事業、県営にて継続が決定
県に事業再開願を却下され、大阪上等裁判所へ提訴。
県の築港事業一時中断される
訴訟に敗訴するも、内務卿(大臣)に直訴
県から築港事業継続が認められ、工事再開
築港事業完成
藍綬褒章を受章
逝去。享年78歳

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