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昭和9年頃の大阪港(「大阪築港100年」より)。円内は沖野忠雄。(写真提供:淀川資料館)
現在の大阪港。(2004年6月大阪市港湾局撮影)

大阪築港起工式(明治30年10月17日「大阪築港100年」より)。

大阪築港工事の際、大割石を犬島丸から運びあげている様子(「大阪築港100年」より)。

大阪市毛馬(けうま)地区の淀川沿いに建つ沖野忠雄の胸像。(写真提供:淀川資料館)

 
治水・港湾の開拓に捧げた生涯
 『日本の治水港湾工事の始祖』といわれる沖野忠雄は、1854(安政元)年に現在の兵庫県豊岡市に生まれた。幼少の頃から俊才を認められ、1870(明治3)年に藩の貢進生として大学南校(現在の東京大学)に入学しフランス語を修める。1875(明治8)年にはパリに留学し、土木建築工師の免許を得て6年後に帰国。『工事の機械化の元祖』ともいわれる沖野だが、この留学経験が土木工事に積極的に先進の機械を導入する素地をつくったといえよう。帰国後、1883(明治16)年に内務省土木局技師となり、富士川、信濃川、庄川などの直轄事業を監督。1890年、第四区(大阪)土木監督署署長となるが、大阪のみならず全国の主要な土木工事はほとんど沖野の裁断を仰いだという。在職した30余年、一貫して港湾や河川工事に携わり、国外を含め手がけた港湾は80カ所、河川は100カ所を越える。そのなかでも、沖野が最も心血を注いだといわれるのが、大阪築港事業と淀川の改修工事だった。
 
大阪経済の鍵を握る大阪港
 江戸時代、『天下の台所』と言われるほどの商業都市であった大阪の経済発展の基盤となっていたのが、海運である。ところが、時代が明治となり多くの外国船が日本に訪れると、大阪港を擁する大阪は衰退を始める。なぜなら、淀川とその支流からたくさんの土砂が流れ込むために、大阪港付近は水深が浅く、吃水の深い蒸気船の入港が困難だったからだ。
 大阪府は、経済を建て直すためには築港が不可欠として、ブラントン、ドールン等お雇い外国人に計画書の作成を依頼。政府に何度となく掛け合うが、国の財政難と大阪の経済力低下によってなかなか実現に至らなかった。しかし、1885(明治18)年、1889(明治22)年と淀川が大洪水を起こし、伝染病の流行など多くの水害が起きると、淀川治水工事推進と大阪築港促進の運動が官民挙げて盛り上がり、改めてオランダ人技師デ・レーケに計画立案が依頼される。さらに、内務省は土木技官古市公威、土木技官沖野忠雄らによる調査会を設け、デ・レーケの案を修正補足した上で、正式に決定された。こうして総予算2,249万400円(当時の横浜港、小樽港などの築港予算の約10倍)という未曾有の規模の築港工事が開始された。
 
技師として恥ずるところなき仕事
 工事は、1896(明治29)年、まず淀川改修から始まった。工事責任者は、沖野である。そして翌1897(明治30)年、大阪築港工事が着工。大阪市の依頼により、こちらも沖野が工事責任者を兼任することとなった。沖野は、この二つの現場を人力車で隔日に出勤したという。しかも、これだけ大規模な築港にも関わらず、工期8年と限定されたものだった。この短い工期での完成を可能にしたのは、工事のシステム化と機械化による。コンクリートブロックの製作に至るまで請負業者を使わず直営にしたのだ。さらに外国から工事機械を輸入し、その機械を修繕する機械工場までも直営でつくった。

 また、沖野は両工事に携わる技師達を自宅に招いてご馳走するなど、現場の人間関係を築くことにも努めた。その頃、部下だった真田秀吉著『沖野博士傳記』によると、両工事の技師は一家のごとく親密だったという。沖野自身は酒を一滴も飲まず、『真面目でユーモア少し、諧謔で人を笑わせることは下手だった』としながらも、『いつも話題の中心となっておられた』と部下に慕われる人柄を記している。また、鉄筋コンクリートにいち早く着目したり、機械の導入など工法も進歩的なのは、常に『新書籍を読み、世界の進運に後れぬよう努められた結果』としている。沖野を『工事の機械化の元祖』と言わしめるゆえんである。

 しかしながら、沖野は頭の堅い人物ではない。必要とあらば計画書にない工事を断行したり、将来有望と見込んだ技師を帝大に通わせたりもした。法規に縛られず、国家に有益かどうかが判断基準なのだ。各種工事計画も日本全体を見て着手するので、郷里から水害が多い河川治水の陳情を受けても、優先するようなことはなかった。

 また、金銭や名誉に極めて淡泊だった。大阪築港の功労に、大阪市は数万円の報奨金を沖野に贈ったが、沖野は遂に受取らなかった。土木局長の椅子を勧められたときも、「行政官になろうと思わない」と終生一技術者としての道を選んだ。

 1918(大正7)年、内務技監を退官した沖野は、「俺は技師として恥ずるところなきだけの仕事をしてきた」と親しい者に打ち明けている。そのわずか3年後の1921(大正10)年、68才で生涯を閉じた。

 人格高潔の士として歴代の大臣から厚く信頼され、多くの部下から慕われた、沖野忠雄であった。

沖野忠雄の歩み
1854(安政元)

1870(明治3)
1875(明治8)

1883(明治16)
1896(明治29)
1897(明治30)
1911(明治44)
1916(大正5)

1918(大正7)
1921(大正10)
但馬豊岡藩士沖野春水の子として、
豊岡市大磯に生まれる
藩の貢進生として大学南校(現・東京大学)に入学
文部省留学生として、
パリのエコール・サントラール(中央工科大学)に留学
内務省に入省、土木局に勤務
淀川改修工事着工
大阪築港工事着工
内務技監となる
第2代土木学会会長
勲一等瑞宝章受章
内務技監を退官
3月26日神戸自宅で逝去
享年68歳

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