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60歳の廣井勇(東京帝国大学名誉教授室にて 浅田英禧:「廣井勇の世界」より)
廣井勇が精魂込めて築いた小樽港

1923(大正12)年、メリマン・C・ハリス墓前祈祷会で。左から内村鑑三、廣井勇、新渡戸稲造

防波堤断面図 出典:「小樽築港工事報文」より

小樽港を見下ろす
運河公園に建つ
廣井勇の胸像

※[クラーク]
 William Smith Clark、クラーク博士(1826〜86年)札幌農学校(現・北海道大学)初代教頭。植物学者、教育家。アメリカ、マサチューセッツ農科大学の学長時代にお雇い外国人として日本に招聘された。彼の言葉、’Boys Be Ambitious’(青年よ、大志をいだけ)は有名。
 
人生の大きな転機 札幌農学校での出会い
 廣井勇は、その学術面のみならず、技術者としての生き方においても日本の近代土木工学確立の礎を築いた人物といえるだろう。彼が土佐藩の御納戸役を勤める廣井喜十郎の長男として、この世に生を受けたのは1862(文久2)年。ペリー来航から9年、桜田門外の変から2年後という、まさに日本が生まれ変わらんとしている時代であった。生活はあまり楽ではなかったものの、学問を尊ぶ家庭の中で後の学者としての素地は作られた。

 しかし1870(明治3)年、勇9歳の時父を失い11歳にして単身上京。叔父にあたる侍従男爵片岡利和の許に身を寄せ、東京外国語学校、その後工部大学の予科に片岡家の書生をしながら通学していた。1877(明治10)年に札幌農学校(現・北海道大学)の官費生の募集があり、学費から生活費まで官費と聞いた彼は、即座に応募。第2期生12名中最年少で入学した。この地で彼のその後の生き方を決定する大きな出会いがある。ひとつは内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾ら、後に日本の学術、文化の発展に貢献する錚々(そうそう)たる人物を同胞として得たこと。そして教師の中に米国土木工師ウイリアム・ホイーラーがいたことだった。クラークの後を継いで教頭となったホイーラーは、実践的な土木技術者であった。クラークが伝えた「学問の基礎を現場におく」という思想やホイーラーに師事し土木工学の理論と実際を学んだことが、後に「知識人とはものを知ることより造る人である」といい、「現場のない学問は学問ではない」と語る廣井の哲学につながったことは間違いない。
 
生きている限りは働く信念を守り通した生涯
 札幌農学校卒業後、開拓使鉄路課に勤務し北海道最初の鉄道である、小樽─幌内間の工事に携わった後、師ホイーラーを頼って渡米。土木技師としてミシシッピ川工事などに従事した。1887(明治20)年に帰国すると札幌農学校に工学科が新設され、廣井はその助教授の職を任命される。同時に当時橋梁工学の中心地であったドイツへの留学を命ぜられ、土木工学、水利工学を研究。1889(明治22)年に帰国し、札幌農学校教授となった。

 翌年、北海道庁技師を兼務。1893(明治26)年からは本務として黎明期の北海道の社会基盤づくりに奔走し、土木事業に貢献した。なかでも、その名を高めたものに1897(明治30)年より始まった小樽築港工事がある。小樽湾は冬季になると季節風の影響を強く受け、荷役ができないほどの荒波が押し寄せるところ。北海道の玄関口として安全に機能させるために、堅牢な防波堤を築く必要があった。廣井はこの難題を、火山灰を混入して強度を増したコンクリートを開発、さらにそのコンクリートブロックを71度34分に傾斜させそのまま並置する「斜塊ブロック」という独特な工法を採用することで解決。11年という歳月をかけおよそ1,300mの北防波堤が完成した。

 その後、東京帝国大学工科大学教授に就任し、橋梁学を担当。“生きている限り働く”ことをモットーに常に実践性を重視し、机上の空論を排した実利実行を主眼とした研究、教育活動を率先した。1928(昭和3)年10月1日、東京市牛込の自宅に於いて、突如狭心症にかかり、67歳の生涯を閉じた。その告別式で、札幌農学校同級生だった内村鑑三は弔辞の中でこう語っている。「…廣井君在りて明治大正の日本は清きエンジニアを持ちました……廣井君にその事業の始めより鋭い工学的良心があったのであります。そしてその良心が君の全生涯を通して強く働いたのであります。わが作りし橋、わが築きし防波堤がすべての抵抗に堪え得るや、その深い心配が常にあり、その良心その心配が君の工学をして世の多くの工学の上に一頭地を抽(ぬき)んでしめたのであります。君の工学は君自身を益せずして国家と社会と民衆とを益したのであります…」(廣井勇伝より) 

 小樽港築港工事中、彼は毎朝誰よりも早く現場に赴き、夜も最も遅くまで働いた。現場では半ズボン姿でコンクリートを自ら練る姿をしばしば見かけたという。コンクリート供試体の強度試験は、百年後まで強度をテストするように用意し、実際に現在もなお強度テストが行われている。その小樽港を、廣井は胸像となって今も小樽公園の丘から見守っている。

廣井勇の歩み
1862(文久2)
1870(明治3)
1872(明治5)
1877(明治10)
1881(明治14)

1887(明治20)
1889(明治22)
1890(明治23)
1897(明治30)
1899(明治32)
1928(昭和3)

土佐藩の御納戸役を勤める廣井喜十郎の長男として生まれる
9歳で父を失う
11歳で単身上京。叔父・侍従男爵片岡利和の許に身を寄せる
札幌農学校(現・北海道大学)の官費生として最年少で入学
札幌農学校卒業、開拓使鉄路課に勤務し
北海道最初の鉄道である小樽ー幌内間の工事に携わる
札幌農学校助教授、ドイツに留学
札幌農学校教授
北海道庁の技師を兼務
小樽築港工事着工
東京帝国大学工科大学教授に就任し、橋梁学を担当
10月1日、東京市牛込の自宅で病没。享年67歳

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