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海岸に立つと、波は常に自分に向かって、
つまりこちら側一方向に
打ち寄せて来るように見える。
しかし、その波を分解してみると
実はあらゆる方向からの波の
エネルギーが合成された現象
であることがわかるという。
自然現象の中ではすごく
身近なはずなのに、その実態が
最も複雑で把握することが
容易ではないといわれる「波」。
この波浪の謎を読み解き、
新たな水辺のニーズの開拓に
挑む研究者に話を聞いた。
時々刻々と変化する日本沿岸の波浪を推算

 「波」とはそもそもどんな現象なのだろう。この問いに独立行政法人港湾空港技術研究所の橋本はこう答える。「とても一言で言い表せる自然現象ではないのですが、敢えて言葉にするなら『種々の方向に伝播する様々な要素をもつ正弦波(成分波)の重ね合わせ』ということになります」。橋本は昨年この波をシミュレートする「日本沿岸波浪推算処理解析システム」を開発し、建設産業における優れた新技術の開発者を対象とした国土技術開発賞を受賞した。地形や風などの気象条件を与えて波浪を推算し、その結果をパソコンのモニターに出力するシステムである。「気象庁が公開している気象デジタル情報(GPV)からさらに細かな地形を考慮して風の場を計算し、水深などの地形データを入力して高精度に波を推算します。加えて誰もが容易に扱えるようなグラフィカルユーザーインターフェイス(GUI)も開発しました」。WAMやSWANといった世界最先端の第3世代波浪予測モデルがすでに公開されており、そのモデルをベースにして太平洋や日本海といった海域はもちろん、東京湾や瀬戸内海といった内湾までも対象として波の場をシミュレートすることができるという。実際にデスクの上のパソコンを操作してみせてくれた。ごく普通のノートパソコンである。エリア、年月日その他の諸条件を入力すると、モニター上に波向、波高、周期を示すグラフとともに地図が現れ、波の様子がグラデーションによって表示される。確かに基本的な操作は誰にでもできるユーザーフレンドリーなものだ。
 新たに波浪を観測し、必要な情報を得ようとすると莫大な費用と労力が必要となる。そもそも波の観測は計測器によるものでも始められてから30年程度しか経っていない。そのため台風域内の波浪分布や、より広域の海洋の波の性質を正確に知ろうとすると、観測データだけでは十分ではなく、様々なデータをベースにしたシミュレーションが必要になる。「港湾土木においても防波堤などの構造物を設計する際に『想定外力』として波浪のデータが必要になります。しかし現在のところその外力はあくまで『想定』であって、実際に人間が観測した現象ではありません。このシステムはより高精度なデータを推算してくれますから、港湾構造物の設計時ばかりではなく、工事期間や港の利用段階における波浪の影響もシミュレートすることができます」。
 第二次世界大戦時のノルマンディー上陸作戦の際に連合軍は海岸の作戦展開時の海岸の波を経験的な手法によって計算していたという。波浪の研究はその頃からようやく始まった。意外にもまだまだ新しい分野と言える。「土木分野ではデータや情報がなくても、とにかく造ってきた経緯があります。ピラミッドにしてもたいへん立派な構造物ですが、かつてはそれらの構造物が環境に与える影響までは考慮していなかったのではないでしょうか」。それが時代の要請で様々な条件を想定して、環境、防災、経済性などに配慮する必要がでてきた。「ニーズが多様化している現在、『想定』だけでは済まなくなってきています」。そう語る橋本のデスクのパソコンには「現実」にひたすら近い波が表示されていた。


自然科学、地球科学は人類の共通財産

メソスケール気象モデル(MM5)による
東京湾周辺での海上風の推算結果
 台風の波浪情報、港湾構造物の安全設計、港湾計画における基礎データの提供。この新しいシステムが実現する成果は未知数だ。実際にどんな分野で活用されているのか尋ねた。「まだ具体的な事例を公表する段階ではありません。ペットボトルに『水』を入れて、それを商品として売り始めたとき、みんなびっくりしたでしょう。ニーズというのはある人が新しいものを提供したところから始まるのだと思います。波の情報にしてもそれまで存在しなかったからみんなあきらめていました。ところがこうして高い精度の波の情報を手に入れることができるのです。活かす方法は無限に考えられます」。
 橋本の研究姿勢は、まずニーズありき、それに応える研究、技術開発というスタンスではない。これまで人類が培ってきた研究の成果を応用、進化させることで新たな価値を生み出す。「ある意味で波浪に関する物理は成熟した学問と言えます。今はこれまで明らかにされてきたことの応用を進めていく段階。自然を正確に捉らえるために色々な要素を取込んでいきながら精緻にして行こうと考えています」。この分野の研究は既にかなり拡大し、細分化、高度化しており、一人の研究者が基礎研究から応用プログラムの開発までを単独で担うことは不可能だという。「このシステム開発も一人でやってきたわけではないんです。海洋物理や気象物理のシミュレーション技術は世界の共通財産としてインターネット上でも公開されています。世界中の誰もがソフトやマニュアルをダウンロードして使うことができます。地球科学は全人類の財産だからこの技術によって利益を上げるというビジネスを超えた大きなスケールで考えられているんです」。オランダのデルフト工科大学などで毎年1回研究者が集まる波についての会議にも参加し、世界レベルで意見を交換している。世界的な協力体制を背景とした研究に自分も入り込んで、その中で貢献しながら、異なる分野の知識、技術を身につけていく。その成果を研究分野への貢献を超えて、実際の公共事業に活かしていくことが研究者としての自らの使命だと語る。
アニメ形式で表現された地球上の波浪推算
 「波は生き物です。そして他の自然現象と同様に保存則を持っています。防波堤や岸壁などの構造物を造り、外力としての波を殺しても、どこかで抑止された外力が発現します。土木は自然を支配しようとして進化してきましたが、地球スケールでみると人間の力はとても小さい。それでも自然の脅威を最小限に止め、安全で快適な水辺の環境を創造する。それが港湾における公共事業の目的です。そのためにも自然をよく知る必要があるのです。今まで以上に高い精度で知らなければならないのです」。
 橋本が籍を置く独立行政法人港湾空港技術研究所は神奈川県横須賀市の久里浜にある。施設を出たところはすぐに美しい海岸だ。打ち寄せる静かな波にしばし見入ってしまった。

「エネルギーとしての波」をデータで可視化する
 -日本沿岸波浪推算処理解析システム


 システムは大きく分けて海上風推算システム(気象庁のGPV、台風モデル、メソスケール気象モデルなどによる風の推算)、高精度波浪推算システム(海上風データ、地形データをベースとした波の推算)、波浪推算データベース解析表示システム(計算領域を入力して結果を表示)の3つのシステムから構成されている。世界標準的な最先端の数値計算モデルをベースとして改良を加え開発された。このシステムによって肉眼では視認できない「エネルギーとしての波」を見ることができるようになった。「こうした次世代型の波浪推算モデルが、波浪観測データとほぼ同等の信頼性を得るようになれば、港湾構造物の設計のみならず、広域的な漂砂現象の解明や、港湾荷役の稼働率や港内静穏度の算定など、多くの分野に基礎情報を提供できるようになります」(橋本室長)。衛星データや現地の観測データと数値波浪モデルへの同化といった技術開発も進められており推算精度もますます向上しつつあるという。システムは現在も進化を続けているのだ。
■波浪推算データベース解析表示システム

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