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「こぶ」を備え「穴」を穿たれた防波堤
 四日市港が近代港湾としての形を整えたのは、明治17年(1884)のことである。地元の廻船問屋稲葉三右衛門が、私財と11年もの歳月をかけて建設した難事業だった。不幸にも5年後の台風で防波堤などの施設が大破、オランダ人土木技師デ・レーケの指導と左官職人である服部長七の手で改修される。

 完成した防波堤には、波の力を弱めるための平行する大小2つの「こぶ」と水抜穴をもつという世界的にも珍しいユニークな構造が採用されていた。通称は「潮吹防波堤」と呼ばれる。平成11年(1999)には開港100周年を迎えた。

 これまで港の機能が維持されてきた背景には、多くの人たちの努力がある。ところが技術的に最大の特徴である水抜穴を、いったい誰が考案したのか。この事実はわずか1世紀の間に歴史の中に埋没してしまい、いまでは謎として残されている。


 江戸時代末期、世にいう「安政の大地震」で四日市港は壊滅的な被害を受ける。難局打開に立ち上がったのが、四日市の廻船問屋の稲葉三右衛門だった。明治5年(1872)に三重県へ私財による「再興之御願」を提出する。11年の歳月を要して明治17年(1884)に完成した。ところが明治22年(1889)の台風で壊滅的な被害を受け、再び改修が必要となる。今度は公営(四日市町=当時)事業であった。

 改修にはデ・レーケがかかわり、明治19年(1886)に四日市港の拡大整備計画を提出していた。明治26年(1893)に愛知県三河出身の服部長七の請負で着工、翌27年に完成する。いまも見ることができる四日市旧港の姿である。

 シンボルの潮吹防波堤は長さ199m。断面で見るとラクダの背を思わせるような大小2つのこぶ(堤)があり、その間は溝にしてある。波の力を弱めるための二重構造になっているわけだ。もともと直線式の防波堤だったが、稲葉三右衛門が築造した防波堤のうち台風で崩壊した先端部を除き、基部から136m地点で南にカーブするように建設された。練石積により構築してあり、内側の大堤には五角形の潮吹穴が49カ所設けられている。

 波を防ぐ原理は次の通りである。まず外海からくる波は、外側にある小堤(天端高3.7m)により緩衝され、次に大堤(同4.7m)で受け止めていったん中間の溝に流し込む。そして溝に流し込んだ海水を、潮吹穴から内側(泊地)に排出するというものである。稲葉がつくった防波堤が台風で破壊された教訓を受けてつくられただけに、激しい波でも耐えられる構造を追求して設計されたものだろう。斬新でユニークなこの構造は、もちろん当時の世界のどこにもない防波堤だった。

 では、その潮吹き穴をもつ二重構造を誰が考案したのか。稲葉が建設した防波堤には潮吹き穴のないことが図面などで確認できるので、台風被害後の明治26年(1893)から始まった修復の際につくられたものであるのは確か。ところが残念なことに記録は失われ、いまのところ推測にならざるをえない。

 地元ではデ・レーケの設計と伝えられてきた。だが、台風前に作成されたデ・レーケの計画図には潮吹き穴を見ることができない。それでも明治36年(1903)まで日本に滞在していたことから、台風被害後に指導して潮吹き穴を設けた可能性はあるが、明言できるだけの資料はない。

 工事を請負った服部長七による発案であることも考えられる。服部はこの防波堤を、自らの発明による「たたき工法」という人造石を使った技術で完成させた。こうした独創的な発想をもっていただけに十分に考えられることである。

 潮吹き防波堤をとりまく環境は、100年の間に大きく変わった。昭和16年(1941)からは外側が埋め立てられ、防波堤はたんに護岸へと姿を変える。昭和37年(1962)の伊勢湾台風を受けて、高潮から守るため大堤はコンクリートで嵩上げされ、象徴だった潮吹穴も先端の二カ所を残して封鎖されてしまった。いまでは潮吹き防波堤としての機能は形骸化してしまったが、先端部分の14.7mは歴史的に貴重な施設として保存され、かつての面影を残している。

 四日市旧港は港の機能としては薄まったが、産業都市である四日市の出発点となる近代化遺産としては不動である。同時に、こうした財産を伝えていくことの大切さも教えてくれる。平成8年(1996)には港湾遺産としてはきわめて貴重な重要文化財としての指定を受けた。




写真撮影/西山芳一