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フランソワ・レオンス・ヴェルニー Francois Lence Verny (1837〜1908) フランスで生まれ、パリのエコール・ポリテクニクで理工学を学び海軍造船学校を卒業。日本には慶応元年(1865)から明治9年(1876)まで滞在する。来日してすぐに建設計画を作成し、その 年にすぐに着工。翌年再来日した日の翌日には横須賀の工事現場を指揮するというほどの熱心さだった。 日本にとって大変な幸運だったのは、ヴェルニーが優秀な技術者であると同時に、緻密な構想力と経営能力を兼ね備えていた人物だったことだ。その力は、造船所の建設だけでなく機械器具の設置や購入といった技術的なものから、工場の事務処理などソフト面にまで発揮された。技術者養成学校に象徴される教育の実践は、もっとも大きな功績といえる。自らの構想を実現するため、わざわざフランスから技術者や経理士、医師らも人選して呼び寄せており、その数は40数人にも達する。 日本に近代化の種をまいて技術立国、造船大国の礎を築いた恩人といわれるゆえんである。 |
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(伊藤芳樹氏所蔵) |
ドライドック ヴェルニーの設計になるのは第1号ドック(全長123m、渠内幅29m、渠内深9m)と第3号ドック(全長97m、渠内幅18m、渠内深8m)。第2号ドック(全長156m、渠内幅32m、渠内深12m)はフランス人技師ジュウエットとされるが着工の前に帰国しており、実質的には日本人技術者の手で建設された。詳細にはわからないが、いずれも石造で背面にコンクリートを打った半重力式と見られる。 渠内部の底厚や壁厚は、渠口部とほぼ同じであり、揚圧力や水圧を大幅に少なくした設計とはなっていないようだ。また背面に使ったコンクリートは、当初セメントは高価だったため、焼成した石灰と火山灰を混合したものが使われたとされる。 輸入したフローティングゲートを設置して外の海と締切り、蒸気式ポンプで排水した。 図面が残っている第6号ドック(昭和15年竣工)は、渠内幅60m、渠内深19mだが、渠壁や渠底の厚さは1m以内とスリムだ。ただし、渠口部は、水圧に耐えられるように5m以上の部材厚さがある。19世紀末からはドックの構造計算に関して、静力学的解法論文が数多く発見されているので、ヴェルニーらもこれを参考に設計したとみる技術者もいる。 ちなみに横須賀ではすべての工事が尺貫法ではなく、メートル法で行われたのはフランス科学技術の影響を反映しており、わが国の建設史上、エポックメーキングな点だ。 施工 民間の研究グループは、施工に際して、
ただし海水の浸入を食い止める締切堤の工事を筆頭に、当時としては相当な危険をともなったものだったはずだ。海水と遮断する締切堤は、ドライドック工事の成否を左右する最も重要な工事であり、それだけに細心の注意が払われたものと思われる。 第2号ドックの開業時にまとめられた報告は、約300mの遮堤(二重締切工)をつくり蒸気式ポンプで排水したが、たいへんな危険作業だったことを伝える。二重締切工は、木製の親杭を2列打って杭を固定するタイロッドでつないでいた。横矢板内には止水性を確保するため粘土を詰めている。さらに締切内外に腹付け石といわれるものを置き、水替え時の締切工全体の安全性を保つ構造として安全性を確保した。 入念な準備と慎重な作業をした様子がうかがえる内容であり、それだけに完成した際に技術者らが喝采したのもよくわかる。 技術者養成学校 造船所の中に設置された技術者養成学校は、「黌舎(こうしゃ)」と呼ばれた高等教育機関である。造船だけでなくさまざまな工学教育が行われ、多くの人材を輩出した。卒業生にはのちに横浜でドック建設に関わる恒川柳作や辰巳一をはじめとしたエリート技師がいる。ここではフランス語が必須であり、フランス文学を初めて翻訳した川島忠之助らも生んだ。のちに工部大学校に吸収され東京帝国大学工学部造船学科となり、日本の造船技術をリードすることになる。 高等教育だけでなく技手らを養成する「職人黌舎」と呼ばれる学校も併設され、地元出身者も入学した。高等技術者と職人を養成する教育が、同じ場所で行われることはきわめて珍しい。ここにもヴェルニーが日本の近代化を真剣に考え、情熱を傾けた一端をみることができる。 黌舎からは、その後建設業界でも活躍した技術者を輩出する。黌舎出身者の全容については未解明の部分も多いが、近年、地元の研究者等によって精力的な研究も進められ、論文も発表され始めている。 |
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