『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて
広島港は関西と九州のちょうど中央に位置し、対岸に四国を見据える立地から、瀬戸内海を縦横に走る航路を結ぶ中核港として発展してきた。
近年、韓国や中国との定期航路も整備され、国際貿易港としても注目を集めつつある。
と同時に市民にとっては欠くベからざる生活港としての機能も担っている。
世界に目を向け、瀬戸内海の地域を支える広島港の活気に触れた。
広島港(写真:広島県)
広島港
傑出した指導者と市民による築港
広島港の歴史は16世紀末、毛利輝元の広島城築城にともない、年貢等の物資運搬用の船舶が太田川河口付近に集中したことに始まる。しかし近代港としての本格的な整備は明治期に入ってからであった。1884(明治17)年、宇品築港事業が始まる。動いたのは東京府大書記官から県令に赴任した千田貞暁である。
1880(明治13)年4月、海路により広島に入った千田は、長時間の潮待ちを余儀無くされ遠浅を徒歩で上陸した。港湾整備の必要性を痛感した千田は着任の翌月には内務省に実地調査を依頼、お雇い外国人ムルデルによって市街に通じる道路、土地の大開墾、海堤を含む築港工事計画が立案される。しかし、県道の拡張工事などに多額の予算が投入されていたため、築港の費用は有志の「寄付金」と「労働奉仕」によるとする方針を立てた。当時としては画期的な官民の連携による一大築港事業だ。県の職員が進んで寄付をし範を示したこともあり、事業は順調に進むものと思われたが、漁民による反対運動や、工事を妨害する事件、天災によって宇品築港は暗礁に乗り上げる。寄付金も思うように集まらず、膨らみ続ける資金に市民からの非難が県令に集中した。千田は失敗の際には自害する覚悟で、国費の投入請願、地元企業の融資を求め奔走する。自らも私財を提供して寄付を呼び掛けた。このころ千田の容貌は心労のため一変していたという。この努力が市民の心を動かした。寄付金も集まり、国庫補助金、企業融資などによって予算が確保され、着工から5年、1889(明治22)年に宇品築港事業は竣工する。たぐい稀なリーダーの信念、市民の血と汗によって宇品が近代港としての歴史を歩み始めた瞬間だった。
新しい広島の海の玄関 広島港宇品内港地区
高速船、小型フェリーなど様々な船舶が行交う宇品内港地区
広島港の歴史は宇品地区の旧陸軍岸壁から始まる