海拓者たち 日本海洋偉人列伝
東京・上野の不忍池の程近くに残されている旧岩崎邸と、岩崎彌太郎(円内)
3000人の将兵を運ぶのは誰だ
1874(明治7)年5月、明治政府の重鎮であり、新たに設置された台湾蕃地事務局長官となった大隈重信は、苦りきっていた。
近代日本として初めての海外出兵となる台湾派兵を前にしながら、肝心の兵員を運ぶ手段に窮していたのだ。長崎には陸軍中将・西郷従道率いる征討軍約3000名が、“時はいま”と士気を燃え上がらせて待機している。しかし脆弱な海運基盤しか持っておらず、外航路はもちろん国内の沿岸航路すら海外資本におさえられている日本には、派兵のための兵員輸送を支える海運会社がない。あてにしていた米英の船舶会社は、日本政府への協力を拒否。さらに大隈を失望させたのは、政府の保護を受けている国内資本である日本国郵便蒸気船会社が、今回の軍事輸送について、難色を示したことであった。
しかしこの派兵は、1871(明治4)年に琉球の船が台湾へ漂着した際、54人の乗組員が現地住民に殺害された事件に対する外交上の報復措置に加え、当時、その領有権が清国政府との間でゆれていた琉球の帰属をも左右するものであった。ここで明治政府の覚悟を示さなければ、琉球の日本への帰属はどうなるのか分からない。
大隈はここで、1人の男を呼び出した。その男は、巌のような角ばった顔と、相手の心底を見透かすような大きな目を持ち、見る者を威圧する面構えである。
「事ここに及んでは、なんとか貴殿の協力をお願いしたい」。こう切り出した大隈に、三菱蒸気船会社社長・岩崎彌太郎はこう答えた。
「国あっての三菱です。引き受けましょう」。
勇将の下に弱卒なし
岩崎彌太郎率いる三菱蒸気船会社は、かつての土佐藩所有の3隻の船を元に、海運業に乗り出した九十九商会がその前身である。同社は高知〜神戸間、東京〜大阪間の貨客輸送を軸とする、新進気鋭の民間企業であった。日本国郵便蒸気船が台湾派兵の軍事輸送を渋ったのは、軍事輸送に取り組む間に、三菱蒸気船や外資企業に、市場を奪われることを恐れたからであり、そのリスクは三菱とても同じである。
しかし、さまざまな形で国の保護を受けていながら、はかばかしい業績を上げられない日本国郵便蒸気船にくらべ、三菱蒸気船は、彌太郎の強烈なカリスマの下で、企業としての「士気」の高さは比較にならない。まさに、勇将の下に弱卒なしである。
彌太郎の確約を得た大隈は、10隻の外国船を購入し、その運用を三菱に委託。三菱は3000名の征討軍を台湾に輸送するほか、大量の武器・弾薬、食料などの物資をフル回転で輸送した。征討軍はやすやすと台湾を制圧。この派兵の成功により、琉球の帰属は日本にあることが、国際的に認められた。
日本近代海運の礎を築く
台湾出兵に対する功績により、三菱蒸気船には、政府からさらに大型船3隻の運用が委託された。これによって日本における沿岸航路市場の競争で、三菱は大きくリードする。その結果、翌1875(明治8)年、日本国郵便蒸気船は解散。同年には、三菱は横浜〜上海間の海外航路を開き、ここでも海外の船会社との熾烈な競争を勝ち抜く。
さらに1877(明治10)年に勃発した西南戦争では、38隻の船を政府軍の輸送に投入。約7万の兵員、3489万発の小銃弾、2万3000発の大砲弾などの輸送を行い、政府軍の奮闘を支えた。この功績により三菱は日本有数の産業資本としての基盤を築くこととなり、日本の近代海運の道を拓くことになる。
「国あっての三菱」。岩崎彌太郎が発したこの言葉は、それから130年が過ぎた現在も、「所期奉公」という三菱グループの理念として受け継がれている。
彌太郎の没年、郵便汽船三菱会社は共同運輸会社と合併して日本郵船会社が誕生。1896(明治29)年には欧州定期航路を開設し、第一土佐丸(写真左)などの船を月1回欧州へ送った[写真提供:日本郵船歴史博物館]
岩崎家の家紋「三階菱」(左)と土佐藩主山内家の家紋「三つ柏」(中央)を合わせて九十九商会の船艇号(右)となった。これをもとに三菱のロゴマークが作られた
九十九商会が火災に備えて店先に設置した天水桶(日本郵船歴史博物館所蔵)
岩崎彌太郎の歩み
1835(天保5) |
土佐藩の地下浪人の長男として、現在の高知県安芸市で生まれる。 |
参考文献:「三菱人物伝 岩崎彌太郎物語」成田誠一(三菱広報委員会『マリンスターみつびし』2002年5月号〜2004年4月号)