海拓者たち 日本海洋偉人列伝
稚内港北防波堤ドームと土谷實。北防波堤ドームは2001年北海道遺産に、2003年土木学会推奨土木遺産に指定された
港にそびえる防波堤ドーム
日本最北端の街・稚内の市街は、陸側へ半円状にうねり込んだ宗谷湾に沿うように広がる。大正時代からロシアとの交易拠点として栄え、第二次大戦後に交易は絶えたものの、現在では再び定期便が復活した街だけあって、商店街には「さいほく」(最北)「てっぺん」(天辺)など、この地の地勢をそのまま店名にした看板とともに、ロシア文字の表示が目につく。アルファベットと幾何学記号の折衷のような独特の字形と、北国然とした佇まいの街並みの取り合わせはどこかユニークな眺めだ。
そしてもう一つ、この街には独特な建造物がある。「稚内港北防波堤ドーム」だ。JR稚内駅から港へ向かって5分ほど歩くと、古代ローマ建築のような柱の列が見えてくる。全長427mのあいだに70本もの円柱が連なり、高さは13.2mにおよぶ巨大な半アーチ型の建物は、防波堤とは思えない。アーチのなかへ進んで先を見やれば、古代寺院に迷い込んだような錯覚に陥る。
この防波堤は2001(平成13)年、北海道遺産に指定され、稚内を代表する観光スポットとして、また、稚内港のランドマークとして広く知られている。しかし、そのような効果のためにドーム状の構造形式が考案されたわけでは、もちろんない。建造当時の時代が求めた港の使命を果たすために、北海の過酷な自然条件に立ち向かった一人の技術者が、苦心の末に辿り着いた合理的な帰結なのである。
若者が担った厳しい任務
北防波堤ドームの完成は1936(昭和11)年。設計を手がけたのは、1928(昭和3)年に北海道帝国大学工学部土木工学科を第1期生として卒業し、稚内築港事務所に勤務していた新進気鋭の技師、土谷實である。
当時、樺太(からふと・現サハリン南部)は日本の領有地であり、豊かな森林資源と水産資源に恵まれ、多くの炭鉱も開発された。樺太で生産された産品は、大泊(おおとまり・現コルサコフ)や真岡(まおか・現ホルムスク)、本斗(ほんと・現ネベリスク)などから道北へ積み出され、内地との人の往来も増加の一途を辿った。樺太開発における拠点港の役割を求められた稚内港は、急速に整備が進められたのである。
そのころの北防波堤は5.5mの高さしかなく、海がしけると波が簡単に乗り越え、乗船客が海に転落する事故も発生していた。他の地方であれば話は別だが、ここは北からの強風と激浪うずまく宗谷湾。一般的な防波堤では役をなさなかったのである。
1931(昭和6)年1月に防波堤の改築が決まり、着工は4月という急展開。当時まだ難しかったコンクリート技術を大学で学んだ土谷だったが、若手の技師にとっては荷の重い任務だ。だれかに相談しようにも、適任者がいない。
土谷は強度計算から製図、工事の監督まですべてを一人で担当した。波浪条件を解析し、波力を上手に逃がすアール形状、軟弱地盤に適する地面反力の均一化など、自然の力をしなやかに受け止めるデザインを追い求めた結果、古代西洋の意匠と融合するものになった。円柱とアーチ屋根を持つ回廊デザインである。世界でも類を見ない港湾建造物は、着工までわずか2ヵ月あまりで凝縮された土谷の試行錯誤から生まれたのだ。
地域が育んだノウハウの結晶
時代を再び現代へ戻そう。土谷實が永眠する前年の1996(平成8)年に行われたインタビューのなかで、ドーム構造の着想について、学生時代に入手した、北海道帝国大学で教鞭をとる北海道庁の福岡五一建築課長の講義ノート中にあったヨーロッパ建築に関する資料の影響が大きいと答えている。また、強度計算などについても、卒業論文制作のために、ドイツ語で書かれた建築書を苦労して読み解いた経験が役立ったと語っている。
地元の帝大の学生が学んだ知識と、過酷な自然条件が育んだ高度な技術。ローカルに根差したノウハウから生まれた北防波堤ドームで、今日も地元のイベントが開催され、市民に憩いの場を提供している。
北防波堤ドーム全景(昭和40年頃)
ドーム構内の鉄道桟橋駅と稚泊航路乗船出入口(昭和13年頃)
北防波堤ドーム型枠図
2006年10月、北防波堤ドーム竣工70周年シンポジウムが稚内市内で開催された。写真の講演者は土谷實の子息の土谷武士氏(北海道工業大学教授/北海道大学名誉教授)
土谷實と北防波堤ドームの歩み
1904(明治37) |
山口県に生まれる。幼少のころ家族とともに北海道へ入植。 |
[取材協力・資料写真提供]北海道開発局稚内開発建設部稚内港湾事務所