海拓者たち 日本海洋偉人列伝
京浜工業地帯(写真提供:国土交通省関東地方整備局京浜港湾事務所)と浅野総一郎(写真提供:学校法人浅野学園)
この人物がいなかったら…
東京都から神奈川県の川崎市、横浜市にかけて広がる京浜工業地帯は、事業所数、従業者数とも日本一の規模を誇る。巨大な消費市場と原料・製品の輸出入に便利な東京港、川崎港、横浜港を有し、鉄鋼や機械、化学などの重化学工業から食品、繊維などの軽工業まで、あらゆる分野の企業が集まっている。近代から現在に至るまで、この一帯が日本の産業を牽引しつづけてきたといっても過言ではないだろう。
東京の中央区周辺が、江戸時代に徳川家康の埋立によって造成されたように、京浜工業地帯もかつては大半が海であった。年間の製品出荷額が41兆円を超える一大工業地帯は、ゼロから創り上げられたのである。
なにもない海、なにもない土地の発展のために多くの人々が貢献してきたが、この人物が欠けていたら京浜工業地帯はなかったとされる事業家がいる。時代にさきがけてエネルギー事業やインフラ整備を手がけ、一代で浅野財閥を築いた、浅野総一郎である。
大事業への思いは絶えず
明治初期のころ、石炭販売業にはじまりコークス・コールタールの廃物利用やセメント工場など、さまざまな事業で成功を収めていた浅野は1896(明治29)年に東洋汽船株式会社を設立。長年の夢であった外国航路への進出である。設立にあたっては、すでに知遇の仲となっていた第一国立銀行頭取にして抄紙会社(現・王子製紙)社長の渋沢栄一と、安田財閥の安田善次郎をはじめ、財界人の協力を得ることができた。渋沢と安田はその後も長きにわたって浅野を援助しつづけた。裸一貫で上京し、時代の求める事業を立ち上げる浅野の手腕と進取の精神、そして熱意のかたまりのような人柄が、当時の日本を代表する二人の実業家の胸を打ったのである。
政府から航海奨励金を受け、浅野は米国と欧州へ視察旅行に出かけた。航路の選定と汽船の購入が目的である。横浜〜サンフランシスコ航路を獲得、また英国で最新鋭の大蒸気船を発注と、目的は果たされた。しかし、いま浅野の功績を振り返ると、航路や船以上の収穫を得て帰国したように思える。それは、彼が諸外国で目にした港湾施設の発達ぶりである。ホノルルにバンクーバー、フランクフルト、ロンドンなど、どの港も数千〜1万t超の大型船が停泊していたが、当時の日本は貧弱な港ばかりで、大型船は沖合いに停泊し、波止場とのあいだを小舟が往復して貨物や乗客を運んでいたのである。
ひとつ事業を立ち上げたら次の事業へ。「停滞は後退に等しい」ということばを地で行き、成功によってもたらされた富を惜しみなく次なる大事業に費やす浅野である。のちに手がけることになる築港や埋立の萌芽が、この海外視察で育まれたことは確かだろう。
国家と人々に寄与する偉業
浅野は1899(明治32)年に東京府へ品川湾埋立出願、1904(明治37)年に神奈川県庁へ鶴見〜川崎間の埋立許可願書、さらに1910(明治43)年には東京市に東京湾築港の事業許可願書を提出した。港湾機能の充実した工業用地を造成することで、東京を欧米に比肩する大都市にするためである。しかし、こうした大事業を民間人が自ら申し出ることは異例中の異例。認可されなかった。
ここからが浅野の真骨頂である。1908(明治41)年、安田・渋沢らとともに埋立組合を設立。神奈川県に、5,000万㎡の埋立、延長4,100mの防波堤の築堤、運河開削、道路・鉄道施設、橋の架橋などを含めた「鶴見・川崎地先の海面埋立事業」の申請を提出した。そしてついに県から免許を得て1913(大正2)年に着工。着工から15年の歳月を経た1928(昭和3)年、完成を見る。埋立地には大手企業の工場が建ち並び、浅野自身も数々の工場を設立。京浜工業地帯が産声を上げたのである。
浅野の飽くなき事業欲は、富の追求ではなかった。実際、採算を度外視した投資に出ることもあった。彼がなによりも欲していたのは国家に寄与する偉業である。土地をつくり、鉄道や道路、港などのインフラを整え、多くの人に就業の場を与えた工業地帯の創造は、そんな浅野の思いを象徴している。
川崎臨海部の埋立工事で、海底の土砂を掘削するドリルの刃先に使用されたカッターヘッド(写真提供:川崎産業ミュージアム)
埋立工事には、日本に導入されたカッター付サンドポンプ船の第1号が用いられた(写真は同型のポンプ船/写真提供:中泊博物館)
浅野総一郎の銅像
横浜市鶴見区の総持寺にある浅野家の墓
浅野総一郎の歩み
1848(嘉永元) |
富山県氷見郡薮田村(現氷見市)に生まれる。幼名泰次郎 |
[参考資料]「その男、はかりしれず〜日本の近代をつくった男 浅野総一郎伝」サンマーク出版